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2021年12月12日日曜日

真・女神転生Vの真Nエンディングを拝んで (ネタバレ注意)

『真・女神転生V』のパッケージ
狂気のデメテル。
サイン入りウツセミは2、3枚捨ててしまった。

 真・女神転生Vの発売から1か月が経過し、全ルートを巡った人も少なくない。のんびりと遊んでいた私は昨日になってようやくNeutralルートの真エンディングを拝んできた。それ以外ではLawルートのエンディングしか見ていない。難易度はNormalで固定。

 既に何度も言及されているだろうが、今作の残念なところは、人間の登場人物の掘り下げが浅いところだ。特に敦田兄妹はどうにかならなかったのだろうか。ミヤズはサブクエストの方が本番ではあろうが、そのサブクエストも物足りないというのが正直なところ。女神ミヤズをストックに入れたかったような気もする、というのは冗談だが。

 比較的に描写が多かった太宰イチロウも、Lawルートに進むとほとんど見せ場もなく退場してしまう。合一の余波で吹き飛ばされて死亡するという展開に、制作側の都合が垣間見える。せめて、真っ当に戦って真っ当に敗北してほしかった。

 人間の登場人物の描写をもっと多くしていれば、真Nエンディングを見たときの感想も少し変わっていたと思う。主人公は神魔を消し去ることを願い、アオガミとの切ない別れを経て、最後は唯一の神 (のような存在) として世界の行く末を見守る。そのような結末自体は良いのだが、本作では仲魔の育成や豊富なサブクエストの存在から、プレイヤーはむしろ神魔の存在を好ましく思うように誘導されると思う。少なくとも私はそうだった。ときには悪魔を殺し、ときには悪魔に殺され、ときには悪魔を貶め、ときには悪魔を愛好する。そんなゲームで神魔を消し去るのが真のエンディングですとお出しされても。せめて、人間側の描写がもう少し存在すれば、別の感想になったのではないかと思わずにはいられない。

 ただ、樹島サホリの末路や、東京のダアト化に巻き込まれて死亡した人々、学校で悪魔の襲撃にあった生徒たちのことを考えれば、神魔の存在を最初から無かったことにするのは正しい選択なのかもしれない。今回、蛇に乗せられて誘惑するロウヒーロー、生真面目なカオスヒーロー、傍目には狂人にしか見えないNルートの立役者といった、真・女神転生シリーズへの固定観念を逆手に取った構図を作り出そうとする意図が見える。真Nエンディングの大事なものをどこかに捨て去ったかのような後味も、制作側の意図したものなのかもしれない。

……それにしたって、描写が色々と足りていないと思うが。廃墟と化した東京の探索や、精巧な悪魔のグラフィック、興味深い設定と面白い要素は沢山あっただけに、本当にシナリオが惜しい。あと、女神ミヤズ使いたかった。そういえば、神魔のいない世界でもミヤズちゃんは健在だったけれど、コンスが存在しないのにどうして元気そうなのだろうか。主人公が気を利かせたのだろうか。

2021年11月9日火曜日

『魚社会』の「カステラ風蒸しケーキ物語」

『魚社会』の表紙

 panpanyaといえばいわゆる不条理漫画で有名な方だ。作品のほとんどが一話完結の短篇で、稀に連続する作品を制作する。その稀な例外が、謎の果物・グヤバノを追う『グヤバノ・ホリデー』収録の表題作と、『魚社会』と前巻『おむすびの転がる町』に収録された「カステラ風蒸しケーキ物語」だ。

 「カステラ風蒸しケーキ物語」は、カステラ風蒸しケーキの美味しさに心打たれた主人公が、手段を問わずにカステラ風蒸しケーキを探し求めるという話だ。近くのコンビニになければ隣町まで足を運び、それでも駄目ならば自作しようと試みる。この漫画の作者は、緻密な描写と屁理屈を駆使して、非実在の事物をさながら実在するものであるかのように描き出すのが得意な方であるが、実はエッセイ漫画も得意であったようだ。そんなに美味しいのならば、私自身も一度味わってみたいと思ったのだが、既に販売終了しているらしい。残念でならない。諦めきれず、近くのスーパーをうろついたが、普通のカステラと台湾風蒸しカステラしか売っていなかった。

 ところで、カステラ風蒸しケーキを食べたことがないと記したが、実は売っているところを一度も見たことがない。漫画の通りであれば、コンビニやスーパーで売っていたはずだが、結局、一度もお目にかからずに終わってしまった。前述の通り、作者は存在しないものを実在するかのように描くのが得意な方だ。本当はカステラ風蒸しケーキは実在しておらず、すべて作者の想像上の存在なのではないかと疑っている。もしかしたら、あの聞きなれない果物・グヤバノももしや……。

 え?どちらも普通に実在する?……ああ、そう……。

2021年9月9日木曜日

Creepypasta私家訳『魔の十二分』(原題“12 Minutes”)

作品紹介

Creepypastaである12 Minutesを訳しました。“Pasta of the Month”に指定された作品です。

本作の舞台であるテレビ局「WSB-TV 2」は実在するらしいです。また、例の写真はBelle Gunnessという殺人者の手にかかった人を写したものらしいです。

作品情報
原作
12 Minutesl (Creepypasta Wiki、oldid=1023084)
原著者
RoboKy
翻訳
閉途 (Tojito)
ライセンス
CC BY-SA 4.0

魔の十二分

1987年秋、アメリカ合衆国ジョージア州のアトランタに根差すローカルニュースチャンネルのWSB-TV 2は、日曜朝の番組表に空いた時間を埋めようとしていた。

地元の事業主による応募が数件あった。ニュース局は若き聖職者マーリー・サックス師に1時間の枠を与え、宗教をテーマとした番組を任せることにした。少しばかりの宣伝とともに、10月18日に初放送となった。

番組の依頼料は宗教関係としては標準的だった。内容は、牧師が簡素な椅子に座って、聖書の一節をカメラに向けて読み上げ、その解釈や現代の日常生活への影響について語るというものだった。番組はほどよい数の視聴者を獲得し、放映は12月上旬まで続いた。そのころのことだった。ニュース局に「マーリー・サックス師と光の言葉」の視聴者から極めて奇妙なクレームが寄せられるようになったのは。

クレームの電話は女性からだった (そう、女性だけだった)。クレームの内容は漠然としていたが、番組のある特定の時間に不快感を覚えるという内容だった。女性たちは吐き気、背中の痛み、めまい、目のかすみといった症状を訴えた。女性たちは明確な理由は分かっていなかったが、これらの症状は番組を見ていたことが原因であると確信していた。クレームが寄せられてから3週間経過した後、この「感覚」は番組の途中のおよそ12分間で発生していたことが分かった。

小さなニュース局のスタッフたちはすべての収録機材を確認した。録音用と録画用の両方ともだ。しかし、機材に欠陥は見つからなかった。牧師がこの事件について知らされると、ただ肩をすくめ、意味ありげにこのようなことを述べた。

「神の声を扱いきれない人もいますから……」

局長はクレームの原因をどう説明したものか途方に暮れ、番組の放映を続けることにした。

2月までに視聴者数は急減し、番組の打ち切りが決定された。局長は、他のローカルニュース局2社で沸き上がっていたあるニュースにできる限り多くの時間を割いた方が賢明だと判断した。そのニュースとは流産の流行だ。その現象は11月のある時期から始まった。アトランタの都市部に住む健康な妊婦が流産した件数は300を超えた。CDCはこの恐ろしい現象の明確な原因を見つけられなかった。

牧師は番組の打ち切りを受け容れた。そのときの態度は異様なほどに無関心としか形容できないものだった。打ち切りが伝えられると、牧師は抗議することなく、訳を知ったかのようにただ頷くだけだった。牧師は、最後の収録を一言も発することなく終えて局を去り、姿を消した。それ以来、牧師のことを聞いた者はいない。以前に礼拝をした人も、教会の職員も。ニュース局は問題をこれでおしまいとし、番組枠を生コマーシャルで埋めて、流産の話題に集中し続けた。

1年半後、WSBへインターンに来た男が「光の言葉」のテープを見つけた。そして、宗教がアトランタに与えた影響について取材する番組のための素材を見繕おうと、「光の言葉」のテープを見始めた。アトランタ・インシデント (医学誌上では例の流産の流行がこの名称で知られるようになった) はサックス師の番組が中止になってから3か月たつと立ち消えになり、既に人々の意識から薄れ始めていた。インターンがテープの視聴を続けていると、偶然にもその映像について気懸かりな発見をした。

インターンは映像を10分45秒の時点で止めようとして、誤って早送りボタンを強く押し込んでしまった。映像が過ぎ去っていく最中、インターンはスクリュードライバーでボタンを押し上げようとした。ボタンを直せたとき、ちょうどテープは32分1秒で止まった。スクリーン上に凍り付いた映像を見て、インターンは椅子から転げ落ちた。ひどく腐敗した人の首から上だけが画面いっぱいに映っていたのである。インターンは気を取り直すと、映像を数コマ戻し、再びコマ送りして、自分の気のせいではなかったことを理解した。インターンは最後まで映像を見続けて、ちょうど12分の区間で生首の写真が1コマの間出現することにすぐ気が付いた。

生首の写真の一つ。

インターンは新人に対する何かの悪ふざけだと思い、映像技師の一人にテープを見せた。嘲笑されることを覚悟していた。ところが、技師もインターンと同じくらいに困惑した。番組が中止になってから、例の映像に触った人はいなかったのだ。夜にニュース局が閉まった後、インターンは技師を説得して、「光の言葉」の全テープの視聴を手伝ってもらった。二人はどのエピソードにも例の悍ましい現象が発生していることを確認した。

番組が進むごとに、差し込まれる画像がどんどん不穏なものになっていっていることに二人は気が付いた。蛆がたるんだ肉のところを食い荒らし始め、髪の毛や皮膚が急激に脱落したようだった。今見ているものは技術的にはあり得ないことだと技師はインターンに説明した。映像そのものには継ぎ接ぎした痕跡が全く見られなかったためである。しかも、技師自身も映像の収録に毎回立ち会っており、この写真を映像に挿入する時間は無かったことを知っていた。

発見したものすべてを局長に見せた。局長はこんなものの放映を許していたことに何らかの反発が起こることを恐れ、すべてのテープを破壊することを命じた。局長はインターンと技師に向けて、誰が犯人かなんてことに興味はないと言い、

「……このクソの山の隠蔽だけが今重要なんだ」

とだけ伝えた。そして、二人に他言しないことを要求した。

技師はすぐに吹っ切った。この事件をダークであり奇妙でもある個人的な出来事として記憶に留めた。しかし、インターンは無視しようとしなかった。インターンはテープを処分する前にできるだけ多くの複製を作り、このようなことをした犯人やその動機に繋がり得るものが他に見つからないか調べようとした。

1週間後、インターンは再び技師に助力させようとして、例の画像よりも気懸かりなものを発見したようだと伝えた。個々のコマを時系列順に繋げたところ、腐った頭部の口が言葉を成そうとしているかのように動いているようだったのである。技師は仕事に障ることを恐れ、インターンにテープの複製を廃棄して、二度とその話をしないように言った。

1週間後、夕暮れ時に警察へ通報があった。通報したのはアトランタの郊外に住む老女だった。老女は若い夫婦が住む隣家から恐ろしい音を聞いた。老女は、妻の方は妊娠していて、その身に起きていた何かを恐れていたと伝えた。20分後、警察が現場に到着したとき、窓に明かりは無く、玄関の戸は半開きだった。警察はそっと家に入り、居間へ進んだ。

居間の中では若い女性が発見された。女性は死亡しており、腹部が切開されていた。傷口はギザギザで、血の跡が遺体から部屋の向こう側にあるソファーに続いていた。そこには夫が座っていた。夫はニュース局のインターンであり、全裸だった。足下には胎児が転がっており、死に瀕していた。片手には錆びた金属の壁板の断片を握っていた。インターンの男はこれで妊娠していた妻の腹を掻っ捌いたのだ。テレビがついており、18秒間の無音の映像が繰り返し流れていた。その映像では、腐った首が理解できない言葉を口の動きで伝えていた。

その警察管区で今日まで伝わる話では、そのインターンの男は警察に連行されるときに、何度も何度もこの言葉を呟いていたという。

「神の光がお呼びだ……」

2021年8月16日月曜日

Creepypasta私家訳『午前3時の迷信』(原題“The 3:00 AM Myth”)

夜の寝室の写真

"Hotel Room Bed" by Alan_D is licensed under CC BY 2.0 .

作品紹介

CreepypastaであるThe 3:00 AM Mythを訳しました。午前3時は草木も眠る丑三つ時に近い時間ですね。

作品情報
原作
The 3:00 AM Myth (Creepypasta Wiki、oldid=1408664)
原著者
Renigaed
翻訳
閉途 (Tojito)
ライセンス
CC BY-SA 4.0

午前3時の迷信

午前3時は霊が人々と意思を伝えあう時間と考える人がいます。悪魔の印と考える人もいます。午前3時に目が覚めるとき、誰かが自分を見ていると考える人さえもいます。ただ、誰かが見ているとすれば、部屋に窓も扉もないときはどのようにしてこちらを見るのでしょうか。午前3時とはどういうものかということについて、この世には数多くの迷信が存在ます。世界中に存在するこの時間の迷信の本当の意味についてお伝えしましょう。

あなたはぐっすりと眠っていて、夢を見ています。夢を見ている間は、周囲の状況が分かりませんし、クローゼットの中に潜んでいるかもしれない何かにも気付きません。ベッドの下に潜むかもしれない何かにも、掛布団に潜り込んであなたの隣にいるかもしれない何かにも。あなたの目がパッチリと開き、あなたは時間を確認します。腕時計か、携帯電話か、目覚まし時計か、横たわるあなたの周囲にある時間を表示している何かしらで。ただ、時間を知ること自体は本当はどうでもいいことです……よね? あなたは目をこすり、目を数回瞬かせて、部屋の暗闇に目を慣れさせます。

床板が軋む音が耳に入ります。床の上をパタパタという音が走ります。あなたはきっとそれをただの鼠と心の中で思っていますね。たぶん、ただのハツカネズミの類、……いや、ドブネズミの類だろう、と。とても大きな鼠があんな大きな足音をたてているのでしょう。あなたは恐怖で麻痺してしまい、ベッドの端の方を見る勇気が出ません。あなたはただ勝手に怖がっているだけ。こんな馬鹿げたことはもう十分、と自分に言い聞かせます。ただ、それは馬鹿げたことでしょうか。つまり、怖がるべき理由があるのでしょうか。ベッドの下には怪物がいるのでしょうか。あなたが真夜中にトイレに行ったり水を飲んだりしようとして起き上がったところを、怪物が足を捕まえたりベッドの下に引きずり込んだりしようと待ち構えている、ということがあるのでしょうか。

あなたは怪物の存在を信じていません。何年か前の子供の頃に、母親か父親があなたに語ってくれた物語がありました。ブギーマン、サンドマン、その他の怪物の物語は、あなたを怖がらせるためだけのただの物語でしかない……はずですね? ええ、その通り。怪物は実在しない、あなたはそう思い、幼い頃の自分の恐怖心に含み笑いをします。いや、待ってください。あれは何でしょう? パタパタという足音が近付いているようです。非常にゆっくりと扉が開き、キーキーという長く大きな音が聞こえて、あなたはぎゅっと固く目を閉じます。さっき聞こえたのはくすくす笑う声ではないか? いや、もちろん違います。ハツカネズミはくすくすと笑いません。ドブネズミもそうです。あなたは妄想に囚われつつ、ゆっくりと目を開けて、天井をじっと見つめます。

掛布団の下で何かが動いています。被っていると暖かくて心地よい掛布団の、その下で。その何かはゆっくりと曲がりくねりながらあなたの方へ近付いてきます。それはまるで毛布の下で足を引きずっているかのようです。あなたは恐怖で凍りつきます。ここから移動するのは怖い。さもないと、居場所を知られてしまいます。あなたは何かがあなたの着るダブダブの服を引っ張っているように感じます。なんてこと、あれは何? あなたは掛布団を引き上げて床に投げ捨て、目に入ったものにハッと息をのみます。その生き物はいびつでグロテスクであり、あなたのおなかをキリキリとさせます。それは数百年前に織られたかのような破れた布切れを纏っています。それは頭を右に傾け、歪んだ笑みを見せます。その黒くて瞳のない目があなたをじっと見つめます、瞬きもせずに。

あなたはゆっくりと上体を起こし始めて座った姿勢になり、その生き物から後ずさりします。あなたの行動に対しても、それは気に留めていないようです。それはただ、足を引きずりながら徐々に近付いていき、あなたの脚にまで辿り着きます。それはあなたの上によじ登ると、這いより始めます。ゆっくりと、そう、とてもゆっくりと。それは歯を見せてあのゆがんだ笑みを浮かべています。その灰色の肌が骨ばった体からぶら下がっています。その臭いは実に厭らしく、今までに経験したことがありません。ただ、あなたはこの臭いを知っています。今までに嗅いだことがないにも関わらず。その臭いは腐敗臭です。ただ、いかなる腐敗とも違います。腐敗、肉、そして血の臭いが僅かにあります。これからどうしようか。あなたは思案して唇を舐め、目を大きく見開き、その生き物から目を離そうとしません。

それはまだあなたの体の方へ少しずつ動いており、足を引きずりながら進むたびに、徐々にあなたの顔の方へ近付いています。あなたは鼻から深呼吸し、それからとても大きな叫び声を出します。自分の鼓膜が破れたように思います。その生き物は突然に頭を扉の方にぐいと向けて、殺人的な叫び声を漏らします。それは素早くベッドの端の方へ足を引きずって移動し、飛び降りて、ドンと音をたてて床に着地します。急いで扉から出ていき、廊下の暗闇の中へ消えます。

ほらね? 午前3時は小さなものたちが出てきて遊びにくる時間。小さなものたちがその日があなたにとってラッキーな一日かを決定する時間。小さなものたちが姿を現す時間。ただ、思い違いをしてはいけません。小さなものたちを見る機会はほぼ間違いなく最初にして最後になります。安全に逃げおおせたのであれば幸運です。小さなものたちをどう扱うべきか教えることはできません。小さなものたちはどこにでもいるからです。どの家にもいます。あなたの家にあるどの穴にも、どの隅っこにも、どの裂け目にもいます。自分の家にどれだけいるのか、という質問に答えるのは簡単ではありません。教えられることは、小さなものたちはたくさんいるということだけです。小さなものたちはあなたを研究し、あなたを死に追いやろうと企てています。小さなものたちが死の臭いを放つのも不思議ではありませんね。

Creepypasta私家訳『ミラクルピル』(原題“The Miracle Pill”)

作品紹介

CreepypastaであるThe Miracle Pillを訳しました。原作者はサンドマンの話と同じです。 今回は四体液説を基としており、ペスト医師のマスクを身に着けた怪人物が登場します。

作品情報
原作
The Miracle Pill (Creepypasta Wiki、oldid=1441198)
原著者
RedNovaTyrant
翻訳
閉途 (Tojito)
ライセンス
CC BY-SA 4.0

ミラクルピル

病気でいることは決して楽しいことではない。起き上がる活力があることは滅多になく、どこで休んでいてもそこから動けない。鼻は詰まり、鼻をすっきりさせようと繰り返し鼻をかむのに途方もない時間と無数のティッシュを使い果たす。食べ物は味がしなくなり、喉に詰まったべたつく粘液が取って代わる。そのうえ熱。そんなことはあってほしくないものだが、あらかじめ十分に暖かくしていなければ、痛みが高熱を伴って、その先の一週間の生活を惨めなものにするだけの役割を果たす。

そして、普通の風邪よりもいっそう深刻な病気を患っている人もいる。病院に閉じ込められた人は、医者が苦しみを和らげるために全力を尽くす中、不健康で惨めな有様のままゆっくりと残された日数を数える。病状がどれほどであろうと、どんな病気の人も同意することがある。できる限り早く病状を良くしたい、その方法が単なる錠剤一つくらいに簡単であればいいだろうに、ということだ。病気の人は皆、多くの様々な療法を試す。医者から処方箋をもらう人がいれば、自然療法を試す人もいる。皆が科学が病への解決策になると考えているが、ほとんどの人は代替となる手段について忘れている。

「ドクター」はいつも新たな患者を診たがっており、そのうえ、すばらしい実績を上げている。しかし、予約をとる前に、準備が必要なことがいくつかある。知っているかもしれないが、あらゆる人間には4種類の「体液」がある。この体液がその人間の肉体の振る舞いを規定する。赤胆汁は楽天的な性質、つまりはその人自身の社会的な部分を制御する。黄胆汁は攻撃性を管轄する。黒胆汁は抑鬱性により分泌される。粘液はアパシー、すなわち感情の欠落と関係する。凡百の医者はこの療法の原理を否認するかもしれないが、そのような連中の話を聞いてはいけない。

「ドクター」が体のどこが悪いのか決定するためには、4種類の体液のサンプルが必要になる。採取するのが簡単なものもある。ただ……勇気が必要なものもある。サンプル採取を始める前に、同じ大きさのカップを四つ集めておこう。最も簡単に採取できる体液は赤胆汁だ。必要なものは血液だけ。ただ、検査が可能になるように十分な量が必要だ。自分でナイフを扱うのが上手くないからといって、紙にほんの一滴の血液を残すのでは駄目だ。血を流すことを選ぶのであれば、深い切り傷を良い具合に作る必要があるだろう。だいたい注射1、2回に相当する量だ。この血液を四つのカップのうちの一つに集めるのだ。

次は粘液だ。「粘液」という言葉の伝統的な意味合いは現代で使われるようになっている定義とは完全に同じというわけではないが、それでも現代の用法で使っても意味は通る。だから、鼻をかみ、喉をこすって乾かそう。呼吸器にあるあの緑色の汚らしい粘液を適量集められるのであればどんなことでもすればいい。鼻をかんで粘液をティッシュに出すであれば、粘液とティッシュを分ける必要がある。「ドクター」は非常に多忙だ。「ドクター」が治療しようとするときには、粘液を使い捨ての紙から分ける時間がない。

次のセクションに進む前に、粘液を採取しておくとよい。粘液と紙はくっついてしまう可能性があり、先に分離しておかないと後になって分離するのが難しくなるかもしれないためだ。黄胆汁は胆嚢と関係がある。胆嚢は黄胆汁を分泌し、胃の中にあるスープをひどい味付けにする。その味こそ、今から味わう必要が出てくるものだ。黄胆汁を採取するには無理にでも嘔吐する必要がある。その方法は何でもいい。重要なことは、吐いた液をできる限り純粋に採取することだ。だから、吐いた後にトイレから掬い取るのは駄目だ。黄胆汁は「ドクター」が猶予を与えてくれる唯一のサンプルだ。「ドクター」は黄胆汁は採取が難しいことを理解している。黄胆汁は3番目のカップに入れること。気分を良くしたいのであれば、床を掃除してもいい。

これから最後のサンプル、黒胆汁だ。黒胆汁は抑鬱と関係することが知られているが、涙は適切なサンプルではない。死や腐敗にもっと近しいものこそが「ドクター」が必要とするものだ。ほとんどの人はここで手を引いてしまうが、本当に病気を終わりにしたいのであれば、最後まで続ける必要がある。手っ取り早く済ませよう。肌の一部を直火に晒すのだ。火を体の一部に当てるべきである。肉体の一部が黒焦げになってから死ぬ必要があるためだ (つまり、体の一部を切り取ってから火を通すのでは駄目だ)。痛みと臭いに耐え抜くのだ。一旦、皮膚の一部が黒焦げになった後は、その部分を切り取って、最後のカップに保管しておこう。ほとんどの人は下腹や脇腹の贅肉を焼くが、どの部位を選ぶかはあなた次第だ。

こうして「ドクター」のためのサンプルが用意できた。後は往診に来てもらうだけだ。夜の間、寝室に行き、100%必要とはいえないあらゆる形態の医療品を取り除くこと。取り除く必要のある医療品には、ティッシュ、液体塗布薬、水、咳止めシロップさえも該当する。「気分」を良くする助けになるものも含まれる。これらの物品を除去しないと、「ドクター」がこれらの卑しむべき医療品を見て、侮辱されたと思い立ち去ってしまう。机か棚を片づけて「ドクター」が仕事ができるようにして、その上にカップに入った四つのサンプルと一緒に火のついた蝋燭を置くこと。それから、マーカーを持ってきて、片手の手の甲に数字の「8」を書くこと。ただし、上の部分を下の部分より大きく書く。そして、8の字に「T」を貫くように書く。例を掲載しておいた。カドゥケウスの形に似ているものであれば良い。これだけが「ドクター」があなたの居場所を知るための唯一の手段になる。

明かりを消し、カーテンを引き、ベッドに潜りこむこと。そして、小綺麗にして待つ。この間、誰もあなたと一緒に部屋にいてはならない。夜が更けていくにつれて、患っている病気の症状が出てくるはずだ。喉飴を舐めたり、ティッシュで鼻をかんだりしたくてたまらなくなっているだろう。それでも、ベッドの中に居続けて、休んでいなければならない。そのうちに眠りに落ちるだろうが、1時間後に必ず目が覚めることになる。

ベッドに横たわっていると、部屋の扉が軋む音をたてながら開き、暗闇から図体の大きい人影が歩み出てくる。その肩に掛けられているのは、2枚の汚いボロボロの布切れであり、それは数多くの印で飾られている。その下には同じくボロボロのコートを着ており、コートはさながら胆汁やワキガが泡立つ沼地であるかのような悪臭を放っている。おそらくマスクが最初に目を惹くだろうが、そのマスクが何かは見てそれと分かるはずだ。結局のところ、それは当時の医師たちが身に着けていたものということだ。ただ、マスクには何か違和感があるだろう。気付いたときには頑張って平静にしていよう。なんと、嘴付きのマスクを所定の位置に止めるための釘が後頭部から突き出ているのだ。この釘は患者というよりも「ドクター」自身を守るためのものだ。かつて、「ドクター」のマスクを剥がして自分の病気に晒そうとした患者が現れたことが一度あった。だから、「ドクター」は二度とそのようなことが起こらないようにしたのだ。

「ドクター」は後ろの扉を閉めて、患者の方をちらりと一瞥し、それから机の方へ歩いていく。椅子に座り、鞄を開けて、患者の体液を検査するための様々な奇妙な道具を取り出す。こうして、「ドクター」が検査を実行していると、検査が進む中で患者が気付くはずであることがいくつかある。第一に、「ドクター」が放っていた悪臭のする瘴気が、似たような混合物や化合物をともに作り出していくにつれて、ただただ悪化していくことだ。ただ、すぐに気が付くだろうが、その瘴気は患者の肉体を麻痺させるのである。患者は好きなように動こうとすることも、部屋に引き入れてしまった恐ろしい存在に対して叫び声をあげようとすることも、金切り声をあげながら逃げ出そうとすることも可能だ。しかし、肉体は反応しようとしない。これは一部の患者たちがもっと……危険な行動をとったことに対応するためでもあった。

このとき、「ドクター」のために4種類のサンプルすべてを採取していない場合、つまりは、嘔吐物を全く出せなかった場合や、恐ろしすぎて皮膚を焼けなかった場合、また、少ないサンプルでごまかそうとした場合、「ドクター」はただベッドに近付き、自分でサンプルを集めようとする。一見すると、「これはいい。医者なのだから、黒胆汁を適切に採取する方法を知っているはずだ」と思うかもしれない。ただ、そんな考えは後悔に変わるだろう。金槌とのみで胸郭をこじ開けている瞬間に。こうすることで、「ドクター」は必要な臓器を手に入れられるようになるというわけだ。こうして「ドクター」が患者の治療薬を作成したとしても、患者は治療薬を服用する前に力尽きるだろう。

他にも知っておくべき二つの条件がある。血液病を患っている場合、「ドクター」は赤胆汁を検査すると、ただ立ち上がり、ゆっくりと患者の方へ歩いていき、嘴付きのマスクを患者の鼻に突きつけながら、「君には悪い血液が流れている」と言う。理解できないかもしれないが、その後の「ドクター」の行動に反応するだけの時間はない。なんと、メスを使って腕や脚に一連の深い切り傷を作り、体を流れる真紅の液体の一滴一滴を残らず抜き取ろうとするのだ。

肉体は健康だが、治したい病気が精神上のものである場合、「ドクター」は数時間の検査の後、困惑しながら椅子から突然に立ち上がる。そして、怒鳴り散らしながら、患者の何が悪いのかを知りたがる。少しの間、瘴気が和らぎ、治してほしい精神障害について説明する機会が与えられる。しかし、患者がどう答えたとしても、「ドクター」はそれを理解しない。そして、瘴気がもう一度患者を襲いかかり、「ドクター」は鞄から医療用のこぎりを取り出す。余談だが、瘴気は麻酔性ではない。患者は動けないまま、「ドクター」が脳を調べる中で苦しみ続けることになる。「ドクター」の手は継ぎ接ぎで、フランケンシュタインの怪物のように傷跡が走っている。

このとき、前述の条件のどれにも当てはまっていなければ、しばらくすると、「ドクター」が蝋燭を取って、その火を混合液に漬ける姿を見るかもしれない。暗闇の中、錠剤を握った手が自分の口の近くで突き出てくるまで、辛抱強く待つ必要がある。この錠剤こそが目的の品、待ち望んでいた「ミラクルピル」だ。瘴気は消滅し、「ドクター」は患者に起き上がるように言ってくる。指示に従い、それから「ドクター」の手から錠剤を受け取ろう。そして、それを服用するのだ。

「ドクター」は患者の薬への反応を気にしないようにする。患者の叫び声が大きいほど、「ドクター」は薬が効いていることを確信する。「ドクター」が化合物の中に入れた、比喩ではない文字通りの炎が、血流を通るのを患者は感じ取る。この炎が肉体の隅々を焼き焦がし、この痛みの津波が見つけられる病気を取り除く。薬による痛みはおよそ30分間続く。重要なことはこの痛みを耐えきることだ。既に黒胆汁採取を生き延びたのだ。これも耐えきることができるはずだ。卒倒してはならない。薬が効いている間は意識を保ち続ける必要がある。そうせずに、死なないようにするために意識を保つのをやめると、薬が肉体にもたらす負荷が妥当な限界を超えて心臓を圧迫し、心停止させることになる。「ドクター」は患者を助けようとはしない。病気の治療のためにできることは既に手を尽くしている。今となっては、患者の人生を変えるのは患者自身でなければならない。

それでも、辛抱強く耐えれば勝利を収めることになる。この惨い状態を乗り越えれば、そのすべてが消滅するためだ。「ドクター」はいなくなり、四つのカップは空っぽになる。患者は必要な休息を迎えることになる。そして、次の日に目が覚めると、これまでになく健康な感じがする。実際、奇跡の薬は向こう6か月間、あらゆる病気を除去してくれる。こうして、普通の生活を送ることができるようになり、充実した人生を送ることになるのだ。

おっと、最後に注意を。万が一、病気が末期の状態である場合でも、「ドクター」は治療してくれる。それだけでなく、「ドクター」は患者のあらゆる病気を永遠に治療し続け、その後は自然な人生を楽しめるようにしてくれる。しかし、死の抱擁から逃れる代償は重いものになる。この世から去るとき、「ドクター」は鞄を片手に持ち、患者の魂に実験する準備をしてくるためだ。

2021年8月10日火曜日

Creepypasta私家訳『ゼリービーンズ』(原題“Jelly Beans”)

ゼリービーンズの写真

"Jelly beans" by Mark Hillary is licensed under CC BY 2.0.

作品紹介

CreepypastaであるJelly Beansを訳しました。今回は個人的に興味深かった作品を選びました。 作中ではビーン・ブーズルドバーティ・ボッツの百味ビーンズといった特殊な味のゼリービーンズが言及されますが、どれも食べたことがありません。 そもそも、普通のゼリービーンズを食べたことがありませんね……。正直まずそうだし。

作品情報
原作
Jelly Beans (Creepypasta Wiki、oldid=1464077)
原著者
TeamKillerCody
翻訳
閉途 (Tojito)
ライセンス
CC BY-SA 4.0

ゼリービーンズ

俺は子供の頃、いつもゼリービーンズが大好きだった。学食用の金をゼリービーンズを買うために放課後まで少し残しておいたことを覚えている。帰宅途中にガソリンスタンドに立ち寄ってゼリービーンズを買っていたのだ。毎日、同じガソリンスタンドに行き、同じ女性に会った。女性は笑みを浮かべながら、嬉しそうに同じゼリービーンズを売ってくれたものだった。家まで歩く道すがらで一袋全部食べきった。だから、昼ごはんを買う金を無駄遣いして菓子を買っていたことを、お袋に知られて怒りを買うことはなかった。高校までこの日課を続けた。

高校生のころ、ゼリービーンズはだんだんと人気がなくなり、見つけるのが少し難しくなった。免許をとるころにはガソリンスタンドでももう売られなくなった。ガソリンスタンドに立ち寄る理由はガソリンだけになった。毎日、放課後にガソリンスタンドに立ち寄って満タンにし、ウォルマートへ車を走らせ、キャンディコーナーを探り、ゼリービーンズを買わなければいけなかった。ウォルマートから家まで車で15分かかった。この日課はだいたい4年間続いた。高校を卒業するまでにお袋は死に、家は俺のものになった。この時期は人生の休止期間だったが、ゼリービーンズ中毒のおかげで気分が慰められた。

新しいフレーバーが出現し始めた。トロピカルフルーツ、サワー、ミント、あらゆる味のフレーバー。そのころは変なフレーバーがあった。ビーン・ブーズルド、バーティ・ボッツの百味ビーンズ。耳くそやゲロ、土、ミミズなどのフレーバーがあった。あまりにも奇妙だったものだから……このようなひどいフレーバーを結構楽しんだ。最初に素敵な味のゼリービーンズを食べ、最後に凶悪な天国をすべてとっておくようになっていた。汚れたおむつ、鼻くそ、おしりふき、どれも味蕾を満足させた。

そしてハロウィンの数日前、新たにひどい味のゼリービーンズが出現した。モンスタースライム、脳みそ、ミイラの骨。どれも新しいフレーバーだったが、箱に「New!」と書かれたギザギザの吹き出しがあったのは血味のゼリービーンズだけだった。パッケージを買って、家に帰り、買ったフレーバーを一つ一つ試してみた。「モンスタースライム」はゲロとブドウを混ぜたような味、「脳みそ」は鼻くそとレバーのような味、「ミイラの骨」はただ犬用ビスケットのような味がしただけだった。

ぞんざいに組み合わせただけのフレーバーにがっかりして、ただゼリービーンズを一掴みして口に放り込んだ。口の中で二つピシャリと弾けるのを感じ、すぐにその味が分かった。しょっぱくて金属のようなフレーバーで味蕾がいっぱいになった。最初、俺は衝撃を受けた。「口の中で出血している……?」と頭の中で自問した。思いつくのに数秒かかったが理解した。血のフレーバーだ! ゼリービーンズの会社がぞっとするほど正確に血のフレーバーを作ったのだ! 本当に、本当に血のような味がした。口いっぱいのゼリービーンズを飲み込んだ。その後、パッケージは2、3個の血のゼリービーンズを残して空になっていることに気付いた。残ったゼリービーンズをすべて手に取り、ゆっくりと食べた。一つ一つ、舌ざわりと、しょっぱく鉄臭いフレーバーを20分近くかけて味わった。

そのまさしく翌日にウォルマートへ向かうと、昨日買ったミックスパックのそばに、ハロウィンフレーバーが個別に入ったパッケージが置かれていることに気付いた。俺は死に物狂いで新しいお気に入りのフレーバーを探していた。お気に入りではないものは全部見つかった。「モンスタースライム」、「脳みそ」、「ミイラの骨」。そして、お気に入りのフレーバーもあった。それは他のものとは違って単に「血」味と書かれておらず、「バンパイアパック」と書かれていた。値段は5.99ドルだった。他のフレーバーよりもかなり高額だったが、大好きな金属のような味付けのキャンディにはその価値があると思った。

バンパイアパックを購入し、車で15分かけて帰宅した。俺はこの新しいフレーバーに夢中になっていた。味と舌ざわりが俺の心を捉えたため、翌日にまたウォルマートへ戻った。このときは財布に金を詰めるだけ詰め込んだ。バンパイアパックの在庫を全部買い尽くすつもりだった。いつもの駐車場に到着し、キャンディコーナーに向かって、あの麗しの味覚を探しにいった。驚いたことに全部無くなっていた。他の「こわ~いハロウィンフレーバー」も残っていなかった。俺はキャンディーコーナーでウォルマートの店員が在庫を確認していることに気が付いた。その女性の店員はどこか見覚えがあるような感じがしたが、そんなことは気にせず、それよりも本題に入ることにした。

俺は店員の方へ向かって、その女性店員の意識を引いた。

「すみません」

「はい?」と言って店員は棚から顔を上げた。

「ハロウィンをテーマにしたフレーバーはどうしたんですか」

俺は何気ない調子で声をかけた。狼狽しているような素振りや、立ち去ってしまいたいという思いでいっぱいであるような素振りは見せないようにした。

「申し訳ございません。その商品は回収されました」

店員は顔に思いっきりにやりとした笑みを浮かべた。このことが俺にとって悩ましいことであると知っているかのようだった。

「きっと、子供にとってはあまりにもひどい味だったのでしょうね」

店員の口ぶりは、さながら飢えた犬の目の前でステーキをぶら下げているかのようだった。店員がからかうような物言いをしたものだから、俺は店員を絞め殺したくなった。それでもそんなことはしなかった。

ゼリービーンズ中毒はかなりのものだったが、欲求に振り回されないようにした。

「なるほど、あ、ありがとうございます……」

俺は頷きつつ言った。抑えきれず、少し震えているかのように瞼をひくつかせた。立ち去ろうと歩き始めたとき、女性が仕事をしていた棚の下に何かがあることに気が付いた。危うく見逃しかけたが、バンパイアパックの「バ」の字が見えた。あのゼリービーンズがここにあることが分かった。バンパイアパックが俺を呼ぶ声が聞こえた。俺は携帯電話を取り出し、女性が立ち去るまで少しの間、文字を打っているふりをした。女性がいなくなると、棚の下でさながら子供がなくしたおもちゃを探しているかのような気分でいた。驚いたことに、見つけたバンパイアパックは1袋だけではなかった。3袋もあったのだ! バンパイアパックはリコールされたのだから、買って店を出ることはできないと分かっていた。俺はすばやくバンパイアパックをひったくり、着ていたパーカーの中のおなか側に押し込んだ。そして、パーカーのファスナーを上げて立ち去った。

とうとう家に着き、車寄せに入り、エンジンを切り、玄関の鍵を開け、家の中に足を踏み入れ、コンピュータデスクに座り、愛するゼリービーンズがリコールされている理由を調べようとした。奇妙なことに、ゼリービーンズのリコールについての情報を何も見つけられなかった。なんと、ハロウィンフレーバーがこれまで存在した証拠さえも見つけられなかったのだ! パーカーからバンパイアパックを取り出し、お椀を持ってきてその中に注ぎ込んだ。とりわけ大きいゼリービーンズを取り出し、机の中央に置いた。目を逸らし、ランプの電源を入れた。10秒間、大きめのゼリービーンズを調べた。ゼリービーンズは本物の血のような紅色で、企業印が白文字で押されていた。どうしてバンパイアパックはリコールされたのだろうか。そして、どうしてそれほどにも本物のような味付けなのだろうか。何かが落ちた音が聞こえた。少し辺りを見回すと、ゼリービーンズの一つがお椀から零れ落ちていた。この奇妙なものを数秒間見つめた。どうしてあのゼリービーンズはお椀から零れ落ちたのだろうか。山になったゼリービーンズのてっぺんとお椀の端は少なくとも3センチ弱はある。

突然、左手に鋭い痛みが走った。見てみると、調べていたゼリービーンズが俺の手をひどく噛んでいたのだ! ゼリービーンズは手から吸い出した血で脈打っていた! ゼリービーンを摘まんで引き抜いたところ、ゼリービーンズには脚や顔がついていた。これはゼリービーンじゃない。うげぇ。恐怖して明かりのところに持っていって分かった。これはダニだ! 大きくて、丸々太った、暗赤色の、血でパンパンになった蠢くダニだ! 不快感で震える右手で、血を吸う生き物を取り去ろうとした。その最中、ゼリービーンズでいっぱいのお椀をひっくり返してしまった。床に零れ落ちたゼリービーンズはすべて動き出し、俺の方に這い寄ってきた。胸部と腹部に痛みを感じた。パーカーの内側を覗くと、小さな怪物どもがバンパイアパックから弾け出ていた! 怪物どもは俺にかじりつき、血を吸い取っていた。俺は卒倒した。そして、名前に込められた皮肉に気が付いた。「バンパイアパック」という名前は血の風味だからではなかった。バンパイアが中に入っていたからだったのだ。多くの思考で頭がいっぱいになり、このグロテスクな寄生虫が体を覆ったせいでパニックになった。バンパイアパックの中身を千ほど食べてしまっていたことを考え込んで頭がいっぱいになり、俺は戻し始めた。ゲロが床を広がった。吐瀉物からダニが姿を現した。俺が食べたダニの中に卵をいっぱい抱えていた個体がいたに違いない。全部が俺の中で育ったのだ! 俺の体は内側も外側もダニで覆われていた。血と吐瀉物の臭いが鼻孔を充満し、体液を失ったことで視界がかすみ始めた。小さなドラキュラのような寄生虫のすべてが小さな牙から血を吸い取っているのを感じた。あまりにも衰弱して逃げ出せず、あまりにも衰弱して動けず、あまりにも衰弱して何もできなかった。できたことは、小さな生き物が俺の体を覆っている最中、横たわってじっとしていることだけだった。ダニが這いまわり、噛みつき、血を吸っているのを感じた。ダニは顔を覆い、顔にある鼻や口といった穴という穴すべてにどんどん這って入り込んでいった。目は最悪だった……。ダニがひっかき、噛みつき、頭の中へ侵食していく音が聞こえた。そして俺の目にまで。1匹のダニが瞼をこじ開けたのが見えた。あまりにも、あまりにも近くにいた。牙に生えた最も細かな毛すらも見えた。ダニが目を掘っていき、計り知れないほどの痛みが走るまでは。俺はとうとう意識を失った。

俺は死んだものと思っていた。いや……、俺は死ぬことを望んでいた。視界が戻ってきた。周囲を見回して自分の状況を把握した。そこは病院、ベッドの上、包帯が体中を乱雑に巻かれ、左目も覆われていた。看護師がベッドわきに来た。俺は看護師の顔を見ていなかった。

「ここはどこ……」

「どうして病院にいるのか、ですね。ハロウィンでトリック・オア・トリートと言いに来た人たちが、自宅で床の上に倒れて血をたくさん流していたあなたを見つけたのです。その人たちはただのハロウィンのいたずらだと思っていましたが、すぐに嘘じゃないと気付いて警察を呼んだのです」

と看護師は言った。俺は袖を引いて腕を見た。腕は小さな吸血動物どもが残した赤いブツブツでいっぱいだった。看護師は「どうぞ」と言って俺の手の上に何かを乗せた。それは小さな箱だった。顔を上げて看護師の顔を見ると、看護師は俺に微笑みかけた。その微笑みをどこかで見たことがあった。看護師は

「楽しんでくれると思いましてね」

と言い、嬉しそうにその場を去った。そのとき思い出した。子供の頃に会ったガソリンスタンドの女性、ウォルマートの女性、看護師。思い返してみれば、ウォルマートでゼリービーンズを買ったとき、いつも同じレジ係が対応していた。全員が同じ女性だった。女性は子供のころから一日たりとも年をとっていなかった。どうすればこんなことが起こるのか。あの女性は何者なのか。どうして女性はいつもそこにいたのか。

俺は手の上に目を向けて、女性が渡したものを見た。

それに書かれた文字を声に出して読んでみた。「バンパイアパック」俺は微笑んだ。

2021年7月10日土曜日

【Creepypasta和訳】サンドマンの倒し方【文字を読む動画】


本作品について

 本作品は評価の高いCreepypastaであるHow to Beat the Sandman (作者はRedNovaTyrant様) を翻訳・翻案したものである。 原文に比較的忠実な訳は「Creepypasta私家訳『サンドマンの倒し方』(原題“How to Beat the Sandman”)」に掲載している。 動画の都合で部分的に翻案した。

文字を読む動画?

 これまではAquesTalkを使用した解説動画を作成してきた。 しかし、今回は合成音声を使用せず、文字だけを垂れ流す動画となった。 合成音声を使って文章を読み上げた方が、視聴者にとっては、内容が頭に入りやすい、BGM代わりに使えるといった利点がある。 動画を作る立場からしても、雑な編集が目立ちにくい、BGM代わりに垂れ流す人が再生数を水増ししてくれると良いこと尽くめだ。 何故、合成音声を使わなくなってしまったのか。それは原作のライセンスに理由がある。

 原作のライセンスはCC BY-SA 4.0である。 ライセンスを継承し、適切なクレジットを表示しさえすれば、自由に作品を利用できる。翻訳しようが、動画のネタにしようが自由だ。 ただ、ライセンスを継承するという条件が大きな制約となる。CC BY-SAの二次創作は、必ずCC BY-SAを継承しなければならない。 CC BY-SAのライセンスで作品を公開する場合、その作品に含めていいのは、パブリックドメイン、CC BY、CC BY-SAの作品だけである。

参考

 動画で使用される合成音声として人気のあるAquesTalk (通称「ゆっくりボイス」) や VOICEROIDCeVIOはパブリックドメイン、CC BY、CC BY-SAでは公開されていないため、これらのソフトウェアで作成した合成音声をCC BY-SAで公開することはできない。 最近、話題になっているCoeFontも同様だ。

 CC BY-SAでも使用できる合成音声もある (HTS Voice "Mei"など)。 私も最初はMeiちゃんなどを利用するつもりだった。一度、試作品を作ったこともあった。 ただ、私の知る限り、ライセンスに問題のない合成音声はどれも扱いが難しい。 私には無理なく聞き続けられる合成音声を用意することができなかった。

 ライセンスを自分で決められるうえに、イントネーションや読み上げ速度などを自由自在に調整でき、歌唱すらも可能な最強の音声もある。自分の声だ。ただ、残念ながら人様にこれを聞かせるのはあまりにも酷である。さすがに自重することにした。

 声優に依頼して、文章を読んでもらうという手もある。将来的にはそのような試みを行ってもいいかもしれない。 仮に声優に依頼するとしたら、声優さんに要らぬ誤解を与えないように、CC BY-SAの理念をきちんと説明する必要があるだろう。

 余談だが、WikipediaSCP財団もCC BY-SAで公開されている。 Wikipediaの文章を読み上げたり、SCP財団の記事を紹介したりする動画も多いが……。 まあ、金が絡まない限り、WikipediaやSCP財団、合成音声の権利者がアレすることはないと思うよ、多分。

動画で使用した作品

フォント

さわらび明朝
Copyright (C) 2008-2021 mshio
本文で使用した。
XANO明朝フォント
Copyright (c) 2003 Hitachi, Ltd. and TypeBank Co., Ltd.
Copyright (c) 2003 UCHIDA Akira
さわらび明朝で収録されていない文字の補間などに使用した。
Journal 74
Copyright (c) 2004, Frank Baranowski
Kaushan Script
Copyright (c) 2011, Pablo Impallari
Copyright (c) 2011, Igino Marini

画像

Hourglass
Jamie
背景で使用した。
File:Clessidra.jpg
Ricce
File:Candle holder 1940s.jpg
RenseNBM
File:CD-Marker.jpg
Gmhofmann
File:Prohibition sign.svg
Pratheepps
File:2010-07-20 Black windup alarm clock face SVG.svg
Sun Ladder
MacBook Pro Retina with 2 Cinema Displays
Brandon Carson
Lehrbuch der gerichtlichen Medicin
Eduard Ritter von Hofmann (提供: McLeod)
縊死した男性の絵。作中の腕や脚はこの方。
File:Candle flame closeup animation.gif
Jahobr
Drawing, Philosopher, 1902
Gilbert Tompkins
サンドマン役はこの方。
File:Odetojoy.png
Armchair
Blue sky 1
Fabio Marini
Randall Combat Knife
James Case
Human eye anatomy anterior view
Patrick J. Lynch
File:NIK 3232-Drops of blood medium.JPG
提供: Rogeriopfm

効果音

keyboard typing old
Eelke
Pop 1
greenvwbeetle
breaking_glass.wav
Mystikuum
Cloth Rustle 4.wav
sunnyflower
Kids Long.wav
staikov
Laughter.mp3
Topschool
laugh12.wav
Reitanna
Baby Gibberish 4.wav
FunWithSound
Wild laughter of the orthodox priest.
urupin
Crate Break 1.wav
kevinkace
Computer Hum 3
tgfcoder
Early Summer Morning Ambience with Birds, Berlin
Pfannkuchn
gore_gory_blood_smash_flesh_murder.wav
EricsSoundschmiede
Finger click 4.wav
deleted_user_2104797

BGM

Bittersweet
Stronger Together
Tortured Soul
Tragic Story
Soul Rail
Unborn's Lullaby
Storytime
Myuu
Music-box_Gentle2
PeriTune

原作

How to Beat the Sandman
RedNovaTyrant

2021年6月12日土曜日

Creepypasta私家訳『暗黒の鏡映儀式』(原題“Dark Reflection Ritual”)

鏡と蝋燭のイラスト

"105040" by Biblioteca Rector Machado y Nuñez is marked with Public Domain Mark 1.0.

作品紹介

 CreepypastaであるDark Reflection Ritualを訳しました。

作品情報
原作
Dark Reflection Ritual (Creepypasta Wiki取得。oldid=1433055)
原著者
BishopStorm
翻訳
閉途 (Tojito)
ライセンス
CC BY-SA 4.0

暗黒の鏡映儀式

この儀式に必要なものは次の通り。

  • 鏡。どんな種類でもいい。
  • 蝋燭。どんなサイズや色でもいい。
  • 一緒に参加する友達。任意。ただし、かなりおすすめ。

警告しておくが、一旦、この儀式を始めると止める術はない。つまり、きちんと終わらせる気もないのに儀式を始めてはならないということだ。

うっかりでも、意図的でも、鏡を割ったことはあるかな。鏡を覗き込んだときに、向こう側から何かが自分を見ているように感じたことや、何か邪悪なものが鏡に映る自分の目の中に潜んでいるのを見たことはあるかな。鏡を割ると7年間不運が続くという言い伝えを聞いたことがあるだろう。

鏡にまつわる言い伝えは数百年もの間、そこかしこに存在してきた。特に、いくつかの古代文明では、鏡にはある種の浄化作用があると信じられていた。鏡に映った自分の目をじっと見ると、自分の負のエネルギーを鏡に映った自分に移すことができると考えられていた。これにより鏡には浄化作用があるとされたが、一方で隠された危険もあると言われていた。これが鏡を割ると不運になるとされる理由だ。考えてみてほしい。もし、この話が本当であれば、鏡を覗き込むたびに負のエネルギーを送り込んでいることになる。家の浴室の鏡の中にどれほどの負のエネルギーが溜まっているか、想像できるかな。鏡を割ると、負のエネルギーが解放されて、周囲にいる全員に不運をもたらすことになる。

この儀式が効果を発揮するには割ってもいい鏡が必要になる。前述の言い伝えによれば、この儀式の危険性と成功したときの利益は、鏡が古いほど大きくなる。考えてみれば分かるはずだ。古い鏡ほど誰かが覗き込んだ回数が多くなる。つまり、より多くの負のエネルギーが鏡の中に入っているということだ。

儀式を始めるには、まず、鏡に映った自分の目をじっと見つめる必要がある。最後にもう一度、自分の負のエネルギーを鏡に送り込むんだ。これは数秒やればいい。それから、前のめりになって鏡に息を吹きかけて、吐息で鏡を曇らせる。私が持っている文献では、「鏡に吐息を擦り込む」と表現されている。一見すると奇妙だと思うかもしれない。でも、少し深掘りすれば、“breath”(息) という単語がかつては「魂」と同じような意味だったことが分かるはずだ。鏡に息を吹きかけると、象徴的には自分自身と鏡を、そして鏡の中に蓄えられた負のエネルギーとを結び付けることになる。この結び付きが儀式を成功させるうえで重要だ。

次の手順に進む前に、儀式の参加者全員が同じようにこの手順を踏む必要がある。これが完了したら、蝋燭に火をつけていい。そして、その蝋燭で鏡を炙る。こうすることで、鏡の中の負のエネルギーを活性化させる。これは数秒だけやればいい。鏡に目につくくらい黒い焼け跡ができるまで続けてもいい。この手順を長く続けるほど、負のエネルギーはより活性化することに注意だ。

これを終えたら、最後の手順は鏡を割ることだ。一旦、この手順を実行したら、走って逃げ出すのがおすすめだ。よくある誤解が鏡を割ると不運がつきまとうというものだ。これは正しくない。鏡が割れると、悪いエネルギーは一つの場所、鏡を割ったところの近くに留まる。悪いエネルギーはいつかは散逸していく。少なくとも、普通はそうなる。

上記の手順を完遂すると、儀式の参加者と負のエネルギーが吐息によって結び付けられることになる。つまり、負のエネルギーは儀式の参加者をどこまでも追いかけてくるということだ。だから、儀式は複数人で実施した方がいい。儀式を一人だけで行えば、すべての負のエネルギーが一人だけを追いかけることになる。でも、集団であれば、負のエネルギーは一人の場合よりも薄く広がっていく。儀式を生き残る可能性を増やせるのだ。

不運は夜通し儀式の参加者をつきまとう。最初はちょっとした不運から始まる。爪が欠けるとか、タイヤがパンクするとか。それでも、ちょっとした不運は悪化し始め、どんどん恐ろしい出来事が身の回りに降りかかってくる。最終的には、生命を脅かすようになる。どれほど多くの人が儀式に参加してもだ。前にも言ったように、きちんと儀式を終わらせる気がないのなら、この儀式を始めてはならない。

夜を生き延びるために私が助言できる唯一のことは、負のエネルギーは吐息と結び付けられているということだ。吐息こそが負のエネルギーが儀式の参加者を探知するための手段だ。悪い状況にいると気付いたら、息を止めてみることだ。一時的に負のエネルギーが探知できなくなるはずだ。もちろん、それほど長く息を止められればの話だが。

それでも、この方法で危険な状況から逃れるための数秒間の余裕が生まれるかもしれない。

ここまで聞いて、きっと疑問に思っているだろう。一体、どうしてこんな儀式をやるのかとね。どうしてこんな風に自分の命を危険に晒すのだろうか。そうだな、儀式をするほとんどの人は儀式が本当に効くとは思っていないんだろう。ただ、そんなこととは違う真っ当な理由もある。

不運は儀式の参加者を夜通し追跡する。でも、夜明けまでどうにか生き延びれば、不運からの逃走が終わるだけじゃない。幸運が始まり出す。夜明けの最初の光は特別で浄化の特性がある。朝まで生き延びれば、鏡の中の負のエネルギーは浄化されて、体の中に戻り、体は正のエネルギーで溢れんばかりになる。この後は何もかもが良くなる。みんなが全体的に親切になり、異性からもめちゃくちゃモテる (君がそっちが好きなら、同性からだね)。何をやっても成功する。仕事の面接や、大事な試験、事業でも何でもね。宝くじを買うのもかなりおすすめだ。

幸運の量と期間は鏡の中の負のエネルギーの量と等価になることに注意しよう。店で買ったばかりの鏡では、幸運は数日しか続かず、大した幸運も訪れない。でも、古い鏡を使えば、幸運は遥かに凄まじいものになり、数か月続くかもしれない。鏡が十分に古ければ、数年間も続くかもしれない。鏡が個人的な繋がりが強いものであれば、つまりは、浴室の鏡や、寝室の鏡といったものであると、幸運は自分の好みや欲望により適合したものになる。

もう一つ警告しておくが、儀式のタイミングにも注意が必要だ。儀式は日没後に始めなければならず、夜明けまでに少なくとも6時間はかける必要がある。儀式を行う人が狙ってしまいがちなごまかしの策略が二つある。日中に儀式を始めるという策と、夜明けの数分前に儀式を始めるという策だ。

夜明け近くに儀式を始めるのは、こういったイカサマの中では最も危険が小さくて済むだろう。夜明け近くに儀式を始めると、負のエネルギーが発現するための十分な時間が経たないうちにまま浄化される。エネルギーはただ空中に散逸してしまうだけでどうとも作用しない。儀式は全くの大嘘だったと思うだけでおしまいだろう。

日中に儀式を始めるのはもっと危険だ。日光がすぐに悪いエネルギーを処理して安全なままにすると考えて、儀式を日中に始めてしまうわけだが、これは正しくない。私は夜明けの光に浄化する力があると言ったが、日光にその力があるとは言っていない。日中に儀式を始めると、不運が儀式の参加者を追跡する時間が増えることになり、生き延びる確率を大幅に減らしてしまう。

まあ、こんな儀式をしようとすれば、多くの人が愚かだとか狂っているだとか言ってくるかもしれない。私はそんなことは言わないがね。私なら儀式に参加しようと考えてしまうのは理解できる。自分の運をコントロールしたいと思うのも理解できる。良くも悪くも、人生が我々に投げかけているらしいでたらめな紆余曲折を受け入れるよりかは理解できるね。

2021年6月6日日曜日

【Creepypasta和訳】写真の少女【合成音声朗読】


本作品について

 本作品は古典的なCreepypastaであるThe Girl in the Photographを翻訳・翻案したものです。 原文に比較的忠実な訳は「Creepypasta私家訳『写真の少女』(原題“The Girl in the Photograph”)」に掲載しています。 動画の都合で部分的に翻案しました。

 本作品はCreative Commonsライセンスでの提供を目指しました。 そのため、朗読音声からフォントに至るまで、ライセンスに気を遣っています。

使用した作品

The Girl in the Photograph (Creepypasta Wiki取得。oldid=957385)
著者不明
HTS Voice "Mei"
名古屋工業大学のメイちゃんの音声を使用しました。採用理由はCreative Commonsライセンスで提供されているためです。
Copyright (c) 2009-2018 Nagoya Institute of Technology, Department of Computer Science
さわらび明朝
Copyright (C) 2008-2021 mshio
Tragic Story
myuu
Little Girl Smiling and Giving Peace Sign
Dan Zen

使用したソフトウェア

Open JTalk
日本語音声合成システム
hts_engine API
音声合成エンジン
AviUtl
動画編集ソフトウェア

2021年6月5日土曜日

Creepypasta私家訳『タルパ』(原題“Tulpa”)

脳のイラスト

"23-2 Inner surface of the brain, seen from above, exposing both lateral ventricles and the third ventricle. The corpus callosum, septum pellucidum and fornix seen in front of 3. Ventricle of the foramen of Monro is cut across and passes posteriorly." by Knowledge Collector is marked with Public Domain Mark 1.0.

作品紹介

CreepypastaであるTulpaを訳しました。 Creepypasta Wikiでは“Historical Archive”や“Suggested Reading”に指定されています。 「タルパ」は「トゥルパ」ともいい、「想像上の分身」というような意味の言葉のようです。

作品情報
原作
Tulpa (Creepypasta Wiki取得。oldid=1401069)
原著者
不明
翻訳
閉途 (Tojito)
ライセンス
CC BY-SA 4.0

タルパ

昨年、私は6か月間、心理学の実験と説明されたものに参加していた。地元の新聞に掲載されていた広告を見つけたことがきっかけだった。その広告には、想像力が豊かで、お金を稼ぎたい人を探しているとあった。その週の広告では遠方で応募資格があったのはそれしかなかった。私は広告を出した人々に電話をかけて、面接の約束を取り付けた。

研究者たちは部屋にただいればいいだけの仕事だと説明した。一人で部屋にいて、脳の活動を読み取るためのセンサーを頭に付け、さらに、部屋にいる間に自分の似姿を思い描けばいいという。研究者たちは似姿のことを「タルパ」と呼んでいた。

とても簡単なことに思えたから、支払われる金額について説明を受けた後、すぐに実験の参加を了承した。そして、翌日に仕事が始まった。研究者たちは私を簡素な部屋に連れて行き、ベッドに寝かせ、それから、私の頭にセンサーを取り付けた。センサーは私の横にあるテーブルの上の小さな黒い箱に繋げられた。研究者たちは再び、自分の似姿を思い描く方法について説明した。もし、退屈したり落ち着かなかったりしても、自分が動き回るのではなく、似姿が動き回っている様子を思い描いたり、似姿と交流したりするなどすべきだと言った。部屋にいる間はずっと、似姿が自分と一緒にいると想像するということだ。

最初の数日間は苦労した。ここまで空想を制御しようとしたことはなかった。数分間、似姿のことを想像しても、そのうちに気が散った。しかし、4日目までには、どうにか6時間ずっと似姿を「存在」させ続けられるようになった。研究者たちは私は上手くやっていると言っていた。

2週目に、私は別の部屋に行くことになった。その部屋の壁にスピーカーが取り付けられていた。研究者たちは気を散らせる刺激があってもタルパを維持できるか見たいと言っていた。音楽が流れだしたが、調子はずれで、耳障りで、落ち着かなくさせるものだった。音楽のせいで似姿を思い描くのが少し難しくなったが、それでも私はどうにかやり遂げた。次の週では、彼らはさらに落ち着かなくさせる音楽を流した。途中で、金切り声や、フィードバック・ループ、旧式のモデムがダイヤルアップするときのような音、どこかの外国語を話す耳障りな声が挟まった。私はただ一笑に付した。そのときにはプロになっていた。

1か月ほど経ち、私は退屈し始めていた。気晴らしにドッペルゲンガーに接触してみることにした。会話をしたり、じゃんけんをしたり、タルパがジャグリングやブレイクダンスをしているところを想像したり、興味がそそったことを何でもやった。研究者たちに、馬鹿なことを想像して研究に悪い影響が出ないか質問したが、研究者たちはむしろそれを奨励した。

そうして、私はタルパと遊び、意思疎通した。しばらくのうちは楽しかった。そのうちに、少し奇妙なことが起こった。私がタルパに最初のデートの話をしたとき、タルパが私の間違いを指摘したのだ。私はデートで黄色い上着を着ていたと言ったのだが、タルパは上着は緑色だったと言ってきた。少し考えて、タルパの言ったことが正しいことに気付いた。私は怖くなってきた。その日の仕事を終えた後、研究者たちにそのことを話した。「あなたはその思考形態を利用して潜在意識に接触しているのです」と研究者たちは説明した。「ある意識のレベルでは自分が間違ったことを言ったことに気付いていたため、潜在意識的に自分の発言を訂正したのです」

怖かったものが急に格好いいものに変わった。私は自分の潜在意識と会話しているのだ!いくらか練習が必要だったが、タルパに質問すればどんな記憶も引き出せることが分かった。何年も前に一度だけ読んだ本のすべてのページや、高校で教わってすぐに忘れてしまったことを思い出せた。素晴らしい体験だった。

研究センターの外で似姿の「呼び出し」を始めたのはその頃だった。最初は頻繁にではなかったが、このときには似姿を想像するのにかなり慣れていたため、似姿を見かけないと違和感を覚えるほどだった。だから、退屈したときはいつも、似姿を思い描いた。ついにほぼいつも似姿を想像するようになった。目に見えない友達のように連れ回すのは楽しかった。友達と出かけるときや、母親の元を訪ねるときにタルパのことを想像した。一度、デートにタルパを連れて行ったことさえある。タルパへは声を出して話しかける必要はなかったため、誰にも気付かれずにタルパと会話することができた。

奇妙に見えるのは分かっている。ただ、そのときは楽しかったのだ。タルパは、私が知るすべてのことや、忘れてしまったすべてのことを漏れなく収めた歩く保管庫というだけでなく、ときには私以上に私のことをよく理解しているようでもあった。自分では何となく気付いていたが、そのことを認識していなかった些細な身振りを、タルパは不気味なほどに把握していた。たとえば、タルパを連れていったデートのとき、デートが上手くいっていないと思っていた。すると、タルパは、彼女が私の冗談にやけに大笑いしていたことや、私が話しているときは身を乗り出していたことを指摘した。タルパは他にも私が意識的には気付いていなかった些細な手がかりを沢山拾い上げた。タルパの言葉を聞いたおかげで、そのデートはすごく上手くいったとだけ言っておこう。

研究センターに行くようになって4か月経った頃には、タルパは常に私と一緒にいるようになっていた。ある日、仕事を終えると、研究者たちが私の元に近付き、タルパを思い描くのをやめるかどうか聞いてきた。私が否定すると、研究者たちは嬉しそうだった。私は密かにタルパに、どうしてこんな質問をしてきたのか分かるかと聞いたが、タルパは肩をすくめるだけだった。だから、私も同じように肩をすくめた。

その時点で、私は少し世間から距離を置くようになっていた。人と付き合うときに問題が起きていた。私は自分自身が形を成したものと相談できるが、一方で、人々は自分自身のことに困惑し、自分自身のことをはっきりと分かっていないように思えた。そのせいで、社会生活を送るうえで気まずい思いにさせられた。他の誰も自分の行動の背後にある理由、つまりは、どうして自分はあることに対して激怒し、どうしてあることに対しては笑うのか、分かっていないようだった。人々は何が自分を揺り動かしているのかが分かっていないのだ。しかし、私は理解している。少なくとも、自分自身に問うて、答えを得ることはできる。

ある日の夕方、友人が私を責めてきた。私が住むアパートの一室に来た友人は、私が出てくるまで玄関のドアを激しく叩いた。友人は怒りながら部屋に入ってきてまくしたてた。「ここ数週間、俺が電話しても出なかったな、この野郎」友人は叫んだ。「何か文句でもあるのか」

私は友人に謝ろうとして、確か、夜に一緒に飲みに行こうと提案しようとしていたはずだ。ただ、タルパが突然に怒り狂った。「奴を殴れ」タルパはそう言った。そして、自分が何をしているのか認識しないうちに、私は友人を殴っていた。友人の鼻の骨が折れる音が聞こえた。友人は床に倒れ込み、それからふらふらとしながら立ち上がって近付いてきた。アパートの部屋のあちこちで私と友人は殴り合った。

私はこれまでになく怒り狂い、慈悲を捨てた。私は友人を殴り倒すと、肋に2回、荒々しく蹴りを入れた。すると、友人は逃げ出して、背中を丸めて咽び泣いた。

数分遅れで警察が来たが、私は友人がけしかけたのだと説明し、友人は言い返そうとしなかったため、警察は警告だけして私を放免した。タルパはずっと歯を見せて笑っていた。その夜、私はタルパと一緒に勝利について鼻高々に語り合い、いかに友人を手酷く殴打したかせせら笑って話した。

翌朝、鏡を見て目の周りの青痣と切れた唇の様子を確かめているときになって初めて、どうして自分が暴れ出したのかを思い出した。私の似姿こそが激怒したのであって、私ではなかった。私は罪悪感を覚え、少し恥ずかしくもなった。しかし、タルパこそが私を心配していた友人と物騒な喧嘩をするように仕向けたのだ。もちろん、タルパはその場にいて、私の考えを把握していた。「君にはもう奴なんて不要だよ。他の誰だって必要じゃないんだ」タルパは私にそう言った。鳥肌が立つのを感じた。

私は自分を雇った研究者たちにこのすべてを説明した。しかし、彼らは一笑に付すだけだった。「自分が想像したものを恐れるなんてあり得ませんよ」研究者の一人が私にそう言った。似姿がその研究者の隣に立ち、頷くと、にやにやとした笑みを私に向けた。

私は研究者たちが言ったことを自分に言い聞かせていたが、それから数日間ずっと、タルパに対する不安が膨らんでいっているのに気付いた。タルパに変化が起こっているようだった。背が高くなっているように見えた。もっと脅威的な存在になっているように思えた。タルパはいたずらっぽく目を輝かせた。ずっと浮かべている笑みの中に悪意の影が見えた。自分の心を失うほどの価値のある仕事などない。そう決心した。タルパが制御できなくなったら鎮めよう。私はその時点でタルパにかなり慣れてしまい、タルパを自然に思い浮かべられるようになっていた。だから、タルパを思い浮かべないように精一杯の努力を始めた。数日の時間が必要だったが、いくらか効果が出てきた。一度に数時間は消滅させられるようになった。しかし、タルパは戻ってくるたびに、さらに悪化しているようだった。肌は灰色になり、歯はさらに鋭くなっているように見えた。タルパは不満げにシッと言ったり、訳の分からないことを早口でまくしたてたり、脅してきたり、悪態をついたりした。数か月間、耳障りな音楽が聞こえていたが、彼と一緒にいるとどこにいても聞こえてくるようだった。家にいるときさえも、くつろいで、うっかりタルパを見ないように集中するのをやめてしまうと、タルパが現れて、耳をつんざくあの音も聞こえ始めるのだった。

私はまだ研究センターに通い、そこで6時間を過ごしていた。金が必要だったのだ。それに、研究者たちは私が今となっては積極的にタルパを思い描いていないことに気付いていないと思っていた。それは間違いだった。5か月と半月が過ぎたある日、仕事が終わると、二人の物々しい男が私を捕まえて拘束し、白衣を来た人が私の体に皮下注射針を突き刺した。

部屋の中で昏迷から目が覚めた。ベッドに縛られて拘束されていた。音楽が鳴り響いていた。そして、私のドッペルゲンガーがげらげらと笑いながら私を見下ろしていた。タルパはもはやほとんど人間には見えなかった。容貌が捻じくれていた。目は眼窩に落ち窪み、死体の目のように霞がかっていた。私よりもかなり背が高くなっていた。しかも前屈みになっていてだ。手が捻じくれていて、爪が猛禽類のそれのようになっていた。要するに、とんでもなく悍ましくなっていた。念じて退散させようとしたが、集中することができないようだった。タルパはくすくすと笑うと、私の腕の静脈注射をコツコツと叩いた。精一杯、拘束から脱しようとしたが、ほとんどろくに動けなかった。

「奴ら、お前を上物のブツでパンパンにしようとしているみたいだ。どんな気分だ。何もかもぼんやりしているのか」話しかけながら体を傾けてだんだんと近くに寄ってきた。私は喉が詰まりそうになった。タルパの息は腐った肉のような臭いがした。集中しようとしたが、タルパを追い払うことはできなかった。

それから数週間はひどいものだった。時折、白衣を着た人が部屋に来て、私の体に何かを注入したり、丸薬を飲ませたりした。連中は私をめまいがしてぼんやりとした状態にし続けて、ときどき幻覚や妄想を起こさせた。私の思考形態はまだいて、いつも嘲笑っていた。タルパは私の妄想の産物と接触していた。もしかしたらタルパが妄想を引き起こしたのかもしれない。母親がそこにいて私を叱る幻覚を見た。すると、タルパは母親の喉を切り、私に血の雨を浴びせた。あまりにも現実みがあって、血の味まで分かった。

医者たちは決して私に話しかけてこなかった。私はたまにお願いをしたり、叫び声を上げたり、罵倒の言葉を投げかけたり、返答を求めたりした。医者たちは決して私に話しかけてこなかった。タルパには話しかけていたのかもしれない。私だけの怪物に。はっきりとは分からない。麻薬漬けにされて混乱していたから、ただの妄想である可能性の方が高い。それでも、私は医者たちがタルパと話していたことを覚えている。私はタルパが実在の人物であり、自分が思考形態だろうと思うようになった。タルパはたまにそのような考えを後押しし、またあるときは私を嘲った。

妄想だと願っていることが他にもある。タルパが私に触れることができるというものだ。それどころか、私に傷を負わせることもできるかもしれないのだ。私がタルパに十分な関心を示していないと感じると、タルパは私をつつき回した。一度、私の睾丸を掴み、私が愛しているというまでぎゅっと握ってきた。またあるときは、タルパが私の前腕を爪で切りつけてきた。まだ傷跡がある。ほぼいつも、自傷したのであり、タルパがやったという幻覚を見ただけだと自分を納得させている。ほぼいつも。

それからある日、タルパが私の姉を皮切りに私の愛する人全員のはらわたを抜いてやるという話をしていた。その最中、タルパが硬直した。不満そうな表情が顔をよぎると、手を伸ばして私の頭に触れた。母親が私が熱を出したときにやったように。タルパはしばらくの間じっとして、そのうちに微笑んだ。「すべての思考は創造的だ」タルパは私にそう言った。それから、タルパはドアを開けて出て行った。

3時間後、私は注射を打たれて、意識を失った。目が覚めると、拘束が解かれていた。震えながらドアの方に向かっていくと、ドアは鍵がかかっていなかった。部屋を出ると人のいない廊下に続いていた。私は走った。一度ならず躓いたが、階段を降りて、建物の裏手の空地に出た。そこで私は倒れ、子供のように涙を流した。移動し続けなければいけないと分かっていたが、涙を止めることができなかった。

ついに家に着いた。どうやって家に辿り着いたのかは覚えていない。ドアの鍵を閉め、ドレッサーをドアに押し付け、長々とシャワーを浴びた。そして、1日半ほど眠り続けた。その夜は誰も訪ねてこなかった。その翌日も誰も来ず、またその翌日も。事は終わったのだ。私は1週間を部屋に閉じこもって過ごした。ただ、1週間は1世紀にも感じられた。以前に世間からかなり距離を置くようになっていたため、誰も私が行方をくらましていたことに気付いていなかった。

警察は何も見つけられなかった。警察が捜索したとき、研究センターは空っぽだった。書面の証拠は無駄だった。連中への呼び名は偽名だった。私が受け取った金ですら見たところ追跡できないもののようだった。

私はできる限り回復した。あまり家から出なくなっている。家から出るとパニックの発作が出る。よく泣くようにもなっている。あまりよく眠れないし、悪夢もひどい。もう終わったのだと私は自分に言い聞かせている。私は生き残ったのだ。私はあのクソ野郎どもが教えてくれた集中するための方法を、自分を納得させるために使っている。効き目がある、ときどきは。

今日は効かなかった。3日前、母親から電話があった。悲劇が起きたのだ。警察によると、姉は連続殺人犯の新たな犠牲者になったのだという。犯人は犠牲者を襲うと、はらわたを引きずり出すのだ。

葬儀は今日の午後だった。葬儀屋が手を尽くしてくれて、すばらしい式になったと思う。それでも少し取り乱していた。聞こえたのは、どこか遠くから聞こえてくる音楽だけだった。耳障りで落ち着かなくさせるそれは、フィードバックや金切り声、モデムのダイヤルアップ音のようにも聞こえた。まだその音楽は聞こえている。今は、前よりも少し大きくなっている。

2021年5月31日月曜日

Creepypasta私家訳『奴らはどこにでもいる』(原題“They're Everywhere”)

作品紹介

 CreepypastaであるThey're Everywhereを訳しました。 Creepypasta Wikiでは“Historical Archive”に指定されています。

作品情報
原作
They're Everywhere (Creepypasta Wiki取得。oldid=957419)
原著者
不明
翻訳
閉途 (Tojito)
ライセンス
CC BY-SA 4.0

奴らはどこにでもいる

「どうにもならないんです、先生。奴ら、どこにでもいやがるんです。俺しか知らないんだ」

「何の話かな、ラリー」

「悪魔だよ!奴ら、どこにでもいるんだ!」

「悪魔について話して、ラリー。どんな見た目をしているのかな」

「革みたいな、てかてかした黒い肌。細長い脚の一本一本に鉤爪が付いている。羽は死神が着る服の布地のよう。それに目だ!」寝椅子の上の男はぞっと身震いする。

「目がどうしたっていうんだい、ラリー」

「その目はデカい。顔の半分が目だ。目のようにすら見えない見た目をしている。数万もの目が集まったような感じなんだ。しかも赤いんだ!」

「分かったよ、見た目の話は十分。どうして悪魔はあなただけをそんなに怖がらせているのかな。悪魔があなたに惹き付けられているのかな。悪魔の何が気に入らないのかな」

「ああ、俺は奴らのことは何でも知っている。奴らは夜に墓場に行き、地面を這い潜って、死体の肉をむしゃむしゃ食らう。奴らは食べ物の中に潜り込んで、ゲロを吐いて毒を盛る。奴らは路肩で倒れている腐りかけの動物の死骸を食べる。奴らはその存在に気付いていない人々の周りを浮遊する。そして、鉤爪を人々の肉に刺し込んで注入するんだ。病気と腐敗と、それから、前に食らったすべての死体の苦痛のすべてを。奴らは不快で忌まわしい生き物で、それで……」

「分かったよ、ラリー。それで、どこで悪魔を見かけるのかな」

「どこにでもだよ!公園では、奴らが家族たちの背後で宙に浮いている。人々には奴らが見えないんだ。それで、奴らは鉤爪を人々の肉に刺し込んで、それで注入するんだ。病気と……」

「分かったよ、ラリー。前もその話をしていたね。今後は週に2回、診察しないといけないね。水曜日と金曜日でいいかな」

ラリーは頷くと、白衣を着た二人の人物に連れられてドアから出る。再びドアが開くと、精神科医の秘書が部屋に入ってくる。

「さっきの統合失調症の方がどうして何も食べようとしないのか分かりましたか」

「ああ。残念だけど、もうしばらく強制摂食が必要になるね。彼は悪魔がどこにでもいて、食べ物に毒を盛っていると思っている。みんなで彼のプテロナルコフォビアを治す方法を見つけないといけないな」

「プテロ……何ですか」

「蝿恐怖症だよ」

2021年5月30日日曜日

Creepypasta私家訳『サンドマンの倒し方』(原題“How to Beat the Sandman”)

作品紹介

 CreepypastaであるHow to Beat the Sandmanを訳しました。サンドマンとは西洋に伝わる精霊の類で、子供の目に砂をかけて眠らせてくるそうな。

作品情報
原作
How to Beat the Sandman (Creepypasta Wiki取得。oldid=1460445)
原著者
RedNovaTyrant
翻訳
閉途 (Tojito)
ライセンス
CC BY-SA 4.0

サンドマンの倒し方

眠らないように起き続けようとして苦労していない?大事な試験のための勉強をしようとして、手つかずのまま週末に先延ばしにしていた締切りぎりぎりの宿題を終わらせ、気づけば午前3時で疲労困憊、なんてことは?もしかして、最近似たような状況になり、助けになりそうなものを探しているところかな。やあ、マイフレンド、君の疲れた心を和らげる処方箋がちょうどある。必要なことはゲームに勝つことだけだ。

ゲームの準備は比較的シンプル。必要なものは砂時計、蝋燭、マーカーだけ。ここではっきりさせておこう。必要な砂時計は1時間計ることができるタイプだ。シリアルの箱から引っ張り出してきたようなボードゲーム用の30秒間しか計ることができない安物は駄目だ。ゲームを始める前に、砂時計の性能を確認しておこう。砂が上から下にすべて落ちきるまでに1時間か少し長いくらいかかれば合格だ。わずかに長くかかるくらいだと良い。ただ、長くかかりすぎるか、短すぎると、ゲームの最中に厄介な問題にぶち当たることになる。ゲーム中は部屋に完全に自分一人しかいない状態にする必要もある。

ゲームの準備ができたら、封鎖できる部屋を選ぶこと。単に出入口や窓を閉じることができる部屋であればいいという意味だ。事前に部屋から時間を計るデバイスやアラームの類を撤去しておく必要がある。そうしないとゲームは始まらない。砂時計だけが時間を計ることができる道具になる。だからこそ、精確な砂時計を持っていることが重要になる。電子ディスプレイがあるものも撤去した方がいい。テレビや携帯電話、コンピュータのモニターなどだ。ゲーム中にこのようなものを部屋に残しておくとひどく不利になる。

午後8時にゲームを始めるとする。まず、部屋を封鎖する。カーテンを閉めて外からの光を遮り、それから、片腕の手の甲に単純化した砂時計の絵を描く。どの手に絵を描いたかよく覚えておこう。ゲーム中は大抵、部屋が暗くなっているからだ。蝋燭を持ち、火をつけ、部屋の明かりを消す。前述の三つの必要なものを近くに集めておき、床に座る。そして、砂時計をひっくり返し、砂が空っぽの下半分へ落ちるようにする。光源は蝋燭だけになるはずだ。

それから、次のような言葉を大声で叫ぶ。「私は疲れていないから眠りたくない」目を閉じて10数え、それから目を開ける。はっきりとは分からないだろうが、部屋のどこかに影のような人の輪郭が見えるような気がしてくるだろう。このとき、ゲームが始まっており、ゲームの相手は睡眠の支配者サンドマンその人に他ならない。サンドマンを怒らせてはならない。話しかけてもいけない。君はサンドマンに異議を唱え、ある意味ではその職務を侮辱したわけだから、サンドマンは控えめに言っても上機嫌とは言えない。

ここからがゲームの本番だ。君の任務はできるかぎり長く起きていること。最長8時間で、午前4時までかかることになる。1時間ごとに砂時計をひっくり返し、ゲームを続けられるようにしなければならない。砂時計をひっくり返すたびに、マーカーを持って腕に印の線を引いていい。どちらの腕に印をつけるかの詳細は後で説明する。砂時計をさっさと8回ひっくり返すとか、腕にただ8本線を引けばいいとは考えてはいけない。1時間が順番に経過していくことが「魔法」が働くのに必要だ。砂粒の最後の一つが落ちる前に砂時計をひっくり返し損ねたり、万が一眠気に屈してしまったりすると、敗北になる。

ゲームの間、サンドマンはできる限り多くの策を展開してくる。君を眠らせるか、屈服させるためだ。ほら見て、砂時計の下半分は常にサンドマンの力を表している。砂が下半分に多く入っているほど、サンドマンの影響力は強くなる。ゲームを開始してほぼすぐに、君は眠気を感じ始める。これは単にサンドマンが出現しているためだ。もし、眠気に抗えないならば、すぐにゲームをやめることだ。最初の1時間は、サンドマンはそれほど多くのことはしてこない。部屋中を歩き回るかもしれないが、君の体に触れてきたり、話しかけたりはしてこない。サンドマンに話しかけようとしても (そんなことは本当にやめた方がいいが)、反応してこないだろう。

また、その場を離れてサンドマンに近付いてはならない。近付けば近付くほど、さらに眠くなる。それに、蝋燭の近くにいないと、サンドマンは君が眠ることができるように蝋燭の火を消してしまう。ゲームの最中に気を逸らしてはならない。どれほど時間が経ったかすぐに分からなくなってしまうし、時間通りに砂時計をひっくり返すのを忘れてしまう。サンドマンは時間がどれほど経ったかという認識を歪めることもできるが、砂時計に影響を与えることはできない。だから、集中力を保ち続ければ、ゲームに勝利する絶好のチャンスが生まれる。ちなみに、部屋を出ようとすると、ドアはすべて施錠されており、窓からは見える限り晴れることのない暗闇ばかりが広がっている。

最初の1時間が経過すると、サンドマンは君を嘲笑ってくるかもしれないが、部屋に留まり続けようとする。このとき、サンドマンは策のタネを引っ張り出してくる。サンドマンは君を手強い相手だと見なしているのだ。オルゴールやハープの音が聞こえるようになるかもしれない。最初は遠くから、しかし、徐々に聞き取れるくらいの大きさになり、心地よい音色になっていく。目を閉じて聞き入りたい衝動に抗わなければならない。

そのときのサンドマンの気分によって変わるが、2、3時間近くになると、君の体は疲れを感じるようになる。このころになると、サンドマンが様々な声を使って話しかけてくる。幼い少女の柔和な声、祖父母の思慮深げな甲高い笑い声、それかおそらくは愛してやまない聞き覚えのある母親の言葉。その声はサンドマンとそれほど長く渡り合ったことを、ゲームに勝つために日夜眠らずに過ごしたことを祝福しようとする。子守歌やわらべ歌の囁きで頭がいっぱいになる。ただ、君は馬鹿じゃないはず。何も言うな、声は無視しろ。どれほど本物のように思えても、声に耳を傾けるな。眠りに落ちるな。

どうにか半分まで辿り着き、腕に四つ目の印を書く頃合いになると、君はまさしく疲れ果てているだろう。そして、サンドマンもまさしく腹を立てている。サンドマンはいっそう周囲の環境を操作し始め、新たな戦術で君を眠らせようとする。安静に寝付かせようとするのではなく、攻撃を仕掛ける。幻覚を使ってくるのだ。どこからともなく差し込まれたスポットライトで照らされた、天井からぶら下がった死体という恐ろしい幻影が見えるようになる。部屋の大きさが変化し、縮んで、それから広がり、また縮んで、そして広がるなんてことが起こるかもしれない。耳の中に響いていた囁き声が、目に見えないものから発せられる叫び声に変わり、君の顔の方に浴びせかけてくる。

衰弱し、睡眠不足にもなっていることで、君に残されたエネルギーはサンドマンが一気に仕掛けてくる恐怖によって使い果たされるだろう。突然にアドレナリンが迸るかもしれない。もちろん、サンドマンは抜け目ない。サンドマンは頃合いを見計らって幻覚を仕掛けてくるため、単に気にかけているだけでは次の1時間までもたない。サンドマンは待ち続ける。そして、君の感情がさらに1段階落ち着くと、そこでバン!腐敗した両足が君の目の前でぶら下がってくる。君は叫びたいだけ叫んでもいいし、サンドマンにやめるようにお願いしてもいい。でも、そんなことをしても活力が減るだけだ。

6時間が経つと、幻覚は恐ろしいものにも心地よいものにも変わる。サンドマンは君の脳を引っ張り出して、どんな悪夢を見たときに冷や汗を沢山かいたか見つけ出す。一方で、君を眠りに誘い、君は十分我慢したから休んだ方がいいと言ってくる幻覚もある。心地よい暖かなベッド、いちばん柔らかい毛皮と羽毛でできた枕。ハープとオルゴールが君の聴覚に負担をかける。君の今の状態では、眠るためのチャンスを歓迎してしまうかもしれないが、気を取り直せ!砂時計を見てきたか?サンドマンの恐怖で気を逸らさないようにしろ。これがサンドマンに話しかけてはいけない理由だ。些細な情報でもサンドマンに渡ってしまうと、君への対抗策に使ってくるのだ。

このとき、電子ディスプレイも大きな問題になる。電源があろうがなかろうが、勝手にスイッチが入る。万が一、ディスプレイに映る人を惑わす幻影を長く見すぎると、瞼が落ちて、体が床に倒れてしまう。画面を見えないように別の方向に向けていても、サンドマンが君の方に向きを戻してしまう。そうして、画面がよく見えてしまうわけだ。

カーテンが開いて、輝かしい夜明けや、綺麗な青空が見えるかもしれない。でも、この部屋の中で真実を示しているのは、君の腕の印と砂時計だけだ。腕に八つ目の印が書かれるまで、ゲームが終わることはない。力を振り絞って砂時計をひっくり返せ。このときには、サンドマンの影響のせいで、砂時計をひっくり返すだけでもかなりの骨折りになっている。マーカーで腕に線を引け。たとえ、ナイフで自分の腕を切り裂いているように見えたとしてもだ。

最後の1時間になると、サンドマンは直接君に話しかけてきて、単純そうな質問をしてくる。でも、このときの君では、2足す2が何かすら頭に浮かばないだろう。質問は頭から追い出すのに最も難しいものだ。だから、質問が頭に入らないようにしろ。耳を塞げ、ただ砂時計だけ見ていろ。目を開きっぱなしにしろ。眠りに落ちるな!質問が頭の中に入れば、質問について考え始め、さらにストレスがかかり、わずかに残っていた心の中のものも使い果たすことになる。何かが肺を圧し潰しているかのように、それか、空気が濃くなって取り込みにくくなっているかのように、呼吸がしにくくなるかもしれない。また、サンドマンが暴力に走り、君を掴んで投げ飛ばしてくる。君は時間切れになる前に、砂時計の元へ這って戻ることになる。サンドマンの顔を一目見てしまうと、あまりにも恐ろしくて目が閉じられなくなるほどの悪夢になるかもしれない。そこには区別できる顔のパーツはない。血走った二つの目を除けば。眼窩から瞼が切り取られており、絶え間なく君を見つめ続けるのだ。

8時間が経過しきる前に耐えられなくなったら、砂時計を手に取って全力で壊せ。ゲームを終わらせるには上下両方の部分とも壊す必要がある。そのためにも、砂時計はガラス製が望ましい。7時間が経過すると、砂時計を壊す余力などない。そうなれば、ゲームを続けるか……夢に降伏するかのどちらかだ。ゲームをこの方法で終わらせると報酬はないが、サンドマンの激怒を免れられるという慈悲はある。眠りに落ちることなく8時間を終えることができれば、砂時計を再びひっくり返す必要はない。ただ腕に八つ目の印を書いて、目を閉じてしまえばいい。

ゲームが終わったとしても、まだ眠ることはできない。最後の仕事が残っている。必要なのはただ待つことだ。サンドマンが砂時計を拾い、「お前はもう立派に成長した。眠りたいときに眠るがいい……」と言うのを待つのだ。目を開けてみろ。そうすると、砂時計が無くなっており、蝋燭の火が消えている。そうなれば、君は倒れて眠ってしまうかもしれない。きっかり12時間眠ることになる。ゲームは君の精神と肉体に重い負荷をかける。だから、回復は必要だ。

ただ、これが必要になる最後の睡眠だ。少なくとも、その長さの眠りは。なぜならば、一度十分に回復すれば、君の腕に刻んだ印の分の時間だけ起き続けられるようになるからだ。普段の睡眠の時間によるが、必要になるのは短時間の昼寝だけになるということだ。大抵の人にとっては1時間か2時間でよくなる。一部の人にとっては、二度と眠る必要がなくなる。もちろん、望めば長く眠ることもできるし、夢だって見られる。ただ、疲労がつきまとってくることは一切ない。なんて生産的!

ただ、甘い話ばかりではない。砂時計の絵を描いていない方の腕に印を付けると、逆にさらに睡眠が必要になる。逆の腕に一つ印を付けるごとにきっかり1時間の睡眠が必要だ。一日中活動し続けるのに、さらなる休息が必要になる。砂時計を描いた腕に印があれば、逆の腕の印を取り消せる。でも、そうでなければ、あれほどの苦痛を経験したのに残るのは……前よりもひどい結果だけ。ゲーム中の錯乱状態やら何やらで、普通の人が砂時計の絵のある腕にすべての印を書くというのは起こりそうにない。

敗北する状況もある。砂時計をひっくり返し損ねると、サンドマンが全力を獲得する。そして、サンドマンが指をパチンと鳴らすと、君は床に倒れ伏してしまう。砂時計をひっくり返し損ねたか、疲れに屈したか、どのような経緯で眠りに落ちたとしても、回復のために12時間眠ることになる。ただ、そのときの睡眠は今までで最悪のものになる。サンドマンがそのように仕向けてくるのだ。最悪の悪夢が君の精神に溢れ出し、抜け出すこともできず、冷や汗いっぱいで目が覚めるなんてことも許されない。できることは何年も続くように感じる夢の責め苦に耐えることだけだ。

そして、翌朝に意識を取り戻すと、君は部屋の床に倒れ伏している。腕に印はまだ残っている。そして、かつて瞼があったところから血が流れ出す。君は目を閉じて眠りたくないと言った。サンドマンはただその願いを叶えてやっただけなのだ。

2021年5月27日木曜日

Creepypasta私家訳『ストレンジャー』(原題“The Strangers”)

電車の写真

"Old Street London Underground Station" by Annie Mole is licensed under CC BY 2.0.

作品紹介

CreepypastaであるThe Strangersを訳しました。 Creepypasta Wikiでは“Suggested Reading”や“Historical Archive”に指定されています。『きさらぎ駅』を代表とする異界駅ものに近い要素がある作品です。

この作品で固有名詞として使用される“Stranger”は、一般には「よそ者」、「見知らぬ人」、「他人」などを意味する普通の英単語です。 本邦の義務教育の範囲でも、道案内の表現を習うときに“I'm a stranger here.”というような用法で出てくると思います。 日本語に訳すとしたら、上手く日本語の一般名詞に置き換えるとそれらしくなるでしょう。“Stranger”の多義的な意味合いを取りこぼさない訳が思いつかなかったため、片仮名表記の「ストレンジャー」という日和った表現に落ち着きましたが……。

それ以外でも色々と苦しい訳です。翻訳が上手くいかないときは、小難しい言い回しになりがちです。 悲しいかな、この訳にはそんな箇所が随所に見られます。改善案があればご提案いただけると幸いです。

作品情報
原作
The Strangers (Creepypasta Wiki取得。oldid=1369158)
原著者
不明
翻訳
閉途 (Tojito)
ライセンス
CC BY-SA 4.0

ストレンジャー

俺の名はアンドリュー・エリックス。昔はニューヨークという都市に住んでいた。お袋の名はテリー・エリックス。電話帳に名前が載っている。あの都市のことを知っているなら、電話帳を読めばお袋の名が見つかるはずだ。お袋にこの文章を見せないでくれ。ただ、俺はお袋を愛している、帰ろうと頑張っていると伝えてくれ。お願いだ。

事の始まりは俺が25歳になった頃、仕事にバックパックを持っていくのはもうやめようと決意したときのことだ。バックパックを背負うのをやめればもっと立派に見える。高校生のようにどこへ行くにも本を詰めたバッグを持っていくなんてしなければよかった。そう思っていた。バックパックを卒業すれば、午前・午後と地下鉄に乗るときの読書をやめることになる。ペーパーバックをポケットに押し込むなんてできないからだ。手提げ鞄はお門違い。俺は工場勤めだったからだ。メッセンジャーバッグはいつ見ても、よく分からんが、ゲイっぽいと思う。パースみたいで好みじゃない。

俺はMP3プレイヤーを持っていた。暇つぶしに役立ったが故障した。手動で次のトラックにスキップしないと、歌が終わったときに勝手にシャットダウンするようになってしまったのだ。こうしてMP3プレイヤーもやめた。だから、毎朝、地下鉄に乗って、無限にだらだらと続く30分間を過ごすとき、乗り合わせた乗客を見るしかやることがなかった。俺は少し恥ずかしがり屋だから、人を見ているところを見られたくなかった。それで、こっそりと人間観察することにした。とても面白いことに、自分だけが公共の場で居心地の悪い思いをしているわけではないとすぐに分かった。

人間は様々な方法で居心地の悪さを隠す。でも、俺はそれを見抜けるようになった。頭の中でそういう連中を分類分けした。まず、そわそわと落ち着きのない奴がいた。こういう連中は居心地よく過ごせず、常に手を動かしたり、重心を変えたり、座席に座るときに脚を前後に揺らしたりしている。いちばん目立って神経質なタイプだ。他にいたのが狸寝入りする連中で、座席に座ると、その瞬間に目を閉じる。ただ、そいつらのほとんどは本当は眠っていない。本当に眠っていれば、もっと体が動くし、電車が止まったときや大きな騒音で急に目を覚ましたりする。狸寝入りの場合、座席に座った瞬間から、電車が目的の駅に入る瞬間まで続く。それと、MP3プレイヤー中毒者、何かとノートパソコンを開く奴、集団で乗って大声でペチャクチャやる連中。携帯中毒者はすごくたくさんいた。そうでなければ、1度に2分以上携帯をしまい込むことが全くできないのだろう。

ちょうど人間観察に我慢できないほど退屈しかけていたとき、最初の不調和な存在を見つけた。中年っぽい男性だ。茶髪で、中肉中背で、普段着。奇妙なことに、その男はあまりにも普通すぎるように見えた。際立った特徴がなく、独特の癖もなく、大衆に消えゆくように設計されたかのようだった。男の存在に気付けたのは、俺が人々が地下鉄でどう行動するかを意図的に見ようとしていたからだった。その男は全く何もしていなかったのだ。何かに反応することもなかった。テレビの前に座り、魚のドキュメンタリーを見ている人を眺めているみたいだった。興奮しているわけでも、何かに忙しいわけでも、よそ見をしているわけでもない。存在するが、どこにもいない。

男は午後に地下鉄に乗っていた。人間観察を始めて1か月以上たって、初めて俺の目を引いた。俺は毎日同じ電車に乗っていたわけではないし、意識的に同じ車両に乗っていたわけでもなかったからだ。俺が男を最初に見かけたのは月曜日だったはずだ。2回目は同じ週の木曜日。男は明らかに同じ電車、同じ車両に乗っており、座席すら同じだった。強迫性障害か?そのときはそう思った。初めて男に意識を向けて以来、次からはもっと熱心に男を観察した。率直に言えば、男は徹底的に不安感を抱かせる奴だった。男は全く何もしなかった。何が起こっても、例の座席に座り、無表情で、頭をまっすぐにしていた。女が泣いている子供を連れて同じ車両に入り、男のちょうど後ろに座ったときも、全く何もしなかった。振り向いたり、不快感に眉をひそめたりもしなかった。それに、例のガキはクソやかましかった。

電車が目的の駅に着くまでに、俺は吐き気がすることに気づいた。車両から出たとき、ニコチンの発作のときのように手が震えた。あの男は何かが「おかしい」。奴はきっとある種の怪物だと思った。社会病質者で、たぶん、ああいう静かな奴の中には、冷凍庫に女の首を1ダースほど隠している奴がいる。最初の犠牲者はそいつの母親だ。

気が付くと、午後の仕事を終えた後にわざとグズグズと過ごすようになった。何も買うつもりがなくても、地下鉄の近くのモールにあるキオスクに立ち寄って商品を眺めて過ごした。数週間、俺はあの地下鉄に乗るのを避けた。電車が到着するときにその駅にいたときは、奴を見かけた車両からなるべく遠い車両を選ぶようにした。

そして、ある朝、頭の中で同じように警鐘が鳴る別の人物を見かけた。

そいつは女で、地味な外見であり、周囲の大騒ぎしている連中とは場違いな風だった。後で気づいたが、その女を認識したその瞬間、それが俺の執着が始まったときだった。俺の人間観察は、退屈しのぎのためのちょっとした趣味として始まったが、ついには俺にとっての信仰のようなものになった。地下鉄やバスに乗るときに、全員を調査し、頭の中のチェックリストを埋めずにはいられなかった。無地の簡素な服?ブランド物を持っていない?チェック。無表情?窓や他の乗客を何気なく一瞥することがない?チェック。バッグ、パース、アクセサリーがない?チェック。チェック、チェック、チェック、また1人出やがった。俺は連中を「ストレンジャー」と呼ぶようになった。

俺は毎日、ストレンジャーを見かけたわけではない。必要以上に地下鉄に乗るようにし始めた後でさえもだ。夕方につい寄り道してバスに乗ってしまうときでさえもだ。しかし、連中はそこらにいた、かなり頻繁に。連中を一人見かけると、歯が浮くような感じがし、手のひらが汗だくになり、喉が渇くようになった。スピーチをした経験があるならば、この感覚が理解できるかもしれない。連中は俺にほんの少しも注意を払わなかったが、自分は連中の見世物になっているような感じがした。俺にとって連中は一目瞭然だった。どうして連中が俺を見逃そうものか。

それでも、連中は俺が見分けられるような行動はしなかった。そして、ついに俺の好奇心が恐怖を押さえつけ、俺は連中の1人を尾行することにした。最初に発見した奴を選んだ。午後に地下鉄に乗っていた、いつも同じ座席に座り続ける男だ。俺は奴の後ろの席に座った。終点まで来ると、奴は立ち上がり、歩いて電車を出ていった。俺もそれに倣った。距離をとってついていったが、奴は遠くへは行かなかった。奴は近くのベンチに座った。いつも通りの無表情だ。俺は角を曲がって待機し、無関心を装った。数分後、次の地下鉄が到着すると、奴はそれに乗り込み、同じ座席に座った。再び尾行する度胸はなかった。

奴はどこにも行っていなかった!ただ終点まで地下鉄に乗り、その後どうしたか?また電車に乗った?あの男は、いや誰であってもどうしてそんなことを?後に来た電車に乗って家に帰り、いくらか休もうとしてからずっと経った後、この謎に悩まされた。理解できるようになるまで放っておくことはできなかった。気づけば、俺はさらに混乱していた。今や徹底的に腹を立てていた。あの薄気味悪い野郎、あのほとんど非人間的な人物が、どうして地下鉄で行ったり来たりして、どこへも行かないんだ?以前読んだことがあるが、精神というものはある種の事物を忌避してしまう。それを見ることそのものが人を傷つけるからだ。クモは多くの人々にその作用を引き起こす。特に大型のものは。クモは我々にとって具合が悪く、異質に見えるのである。それこそがストレンジャーが俺に作用し始めた影響だった。連中は俺の感覚を傷つけていたのだ。

翌日、俺は再びあの男を尾行した。その次の日も。毎日、少なくとも1週間は、一緒に静かに行程を供にした。俺だけが知っている行程を。週末、俺は奴を数時間尾行した。夜、終電が俺のアパートのブロックの近くに止まったときまで、奴を追い続けた。電車に乗って都市の端から反対の端へ、そしてまた逆戻りした。もはや人間観察はしていなかった。人物観察、ストレンジャー観察だ。俺は他の誰も見ていなかったが、行く先で周辺から少なからず困惑した一瞥を送られていたことに気づいた。それを除けば、俺たち二人だけがこの星で唯一存在する人間だった。後は知ったことじゃない。

翌週、俺は仕事をクビになった。部長は親切で、内気な人だったが、強固な性格でもあった。俺は集中力を欠いていた。どこにいてもとても生産的とは言えない状態だった。それはたいそうな演説だったと思うが、聞くのもやっとのことだった。俺が考えることができたのは新しい仕事のこと、つまりは奴への見張りだけだった。地下鉄にいたあの男、いや、あれは俺の目が届いていないときは何をするだろうか?その日の昼に最後の仕事を終えた。普段は、標的の尾行を始めるのは5時30分だったが、奴が俺を待っていると確信していた。今、俺はあの日のことをもっと気にしていればよかったと思っている。その日は晴れていたか?とにかく夏だった。下町をうろつけたし、何人か可愛い女の子と遊べたかもしれない。戸外カフェでアイスカプチーノを飲んで煙草を吸い、それから家に帰って、肥大化する執念を頭の中から追い出せたかもしれない。新しい仕事を見つけ、また電車やバスの中で読書をするようになったかもしれない。

しかし、そうしなかった。代わりに、俺は待った。複数の電車が上ったり下ったりしていた。つまり、俺は駅に少なくとも1時間はいたことになる。俺は駅で待ち続けた、窓からあの男を見つけるまでは。俺は電車に乗り込み、そして初めて気が付いた。自分の肌が汗でべとべとしておらず、手は震えておらず、心臓は激しく鼓動を打っていないことに。初めて俺はあの奴の真向かいの座席に座った。奴の視線を直接受ける場所だ。奴の表情の変化を見ようとした。俺のことを認識したか?そうであれば、俺はその兆候を見逃したということだ。だから、俺は奴をじっと見た。これで間違いなく相棒になったはずだ。午後、向かい合わせの座席に座り、お互いをじっと見つめている。怒りが湧き上がって俺の顔をゆがめないようにするのが難しかったが、どうにか奴と同じくらいにじっとして、無表情でいることができた。内心では、奴に対して叫び声を上げていた。俺に反応しろ、このマヌケめ!俺を見ろ、畜生。俺はお前が何なのか知っているぞ!

しかし、そうならなかった。俺の内なる望みに答えが出ることはなかった。最初の行程も、2回目も、3回目も、10回目も。夜まで俺たちは一緒に電車に乗った。終点に一緒に辿り着き、一緒に待った。ベンチですぐ隣に座り、横目で奴を見ていた。それでも、奴から何も分からなかった。ただ、二人で相手が仕掛けたのと同じゲームをすることはできた。

ついに、最後の行程になった。俺は奴に一緒にいさせた。こうなることを知っていた。夜の最後の行程が終われば、電車は運行を終える。いつもはその時点で奴が立ち去るのを放っておいた。終点から自宅までは長い道程になり、地下鉄と同時にバスもなくなるからだ。しかし、このときは、奴の後をつけることにした。とうとう、電車が止まった後の奴を見ることになる。何らかの答えを得ることになるはずだ、多分。

電車は進んでいき、期待が膨らんでいった。徐々に車両の中から人がいなくなり、都市の地下を黙って互いを見つめあう男二人だけが残された。俺は自分に鞭打ち、男と向き合って熱狂的な笑みを浮かべ続けた。電車は速度を下げて徐行になり、やがて止まった。終点だ。

ストレンジャーは動かず、いまだに何にも反応しなかった。車両は静止しており、ドアが開いた。少数の残っていた乗客たちが俺たちを残して駅を出てどこかへ行く音がかすかに聞こえた。足音が静寂の中にこだました。何の反応もない。寝ぼけた人がいれば終点へ到着したことがわかるように、スピーカーシステムから音が鳴り出した。まだ何の反応もない。そしてとうとう、再び足音が聞こえた。車掌か何かが車両1台1台に頭を突っ込み、夜間に電車を置いておくどっかしらに向かわせる前に、車両が空っぽであることを確認していた。俺は黙りこくった獲物から目を逸らさなかった。

ついに車掌が俺たちのいる車両に来たとき、その姿が横目からどうにか見えた。車掌がのぞき込むと、当て所のない視線が俺たちの上を漂い、顔には当惑した表情が浮かんだ。車掌は数回瞬きすると、硬直した。俺は車掌が話しかけてくるのを待った。一瞬が間延びしていったが、やがて、車掌はわずかに首を振ると、俺たちを置いて立ち去った。俺たちの前方にも車両があり、車掌が同じように確認のために立ち止まる音が聞こえた。それから数分後、電車は再び動き始めた。しばらく電車が進み、そしてぐるりと一周りすると、電車が止まった。俺たちの座っている方の窓からたくさんの電車が見えた。逆側の窓からはもっとたくさんの電車が見えた。

そして、男が俺に微笑みかけた。それは少し唇を曲げただけで、つい数時間を奴の顔面の研究に費やすことがなければ気づかなかっただろう。「そうして」奴は粗野なバリトンで言った。「ここまで来たわけだ」

俺は反応しようとしたが、すぐにはできなかった。俺の喉はきつく締まっていた。恐怖でいっぱいだった。俺たちのいる地下道全体が崩落して俺の体に落ちてくるような気分だった。俺は咳払いをしてどもりつつも、ついには濁った声で、その夜に思い続けていた疑問を投げかけた。俺を半ば狂気に引きずり込み、この場所、この瞬間に導いた疑問だ。「お前は何なんだ?」

奴は俺を無視した。奴が立ち上がると、電車のドアが開いた。そして、衝撃的なことに、俺に顔を向けた。「来るか?」奴は答えを待たず、歩いて電車を出てプラットフォームの方へ行った。俺は急いで後を追った。「おい、畜生!」俺は叫んだ。「俺と話せ。お前は何者なんだ?何なんだ?どうしてクソ一日中地下鉄に乗ってるんだ?」奴は振り返らず、歩みを緩めることもなかった。俺には奴の顔が見えなかったが、奴はこれまで何にも反応しなかったように、俺にも全く反応していなかったと確信している。俺は奴の後を追って、しばらくわめき続けたが、とうとう諦めた。奴から引き出せるはずだったものは「そうして」とか「来るか?」とかいった少しの言葉だけで終わったようだ。

俺たちはプラットフォーム沿いを進み、十字路に出ると、角を曲がった。このとき、俺たちは周囲の電車と直角をなす位置関係にあった。進んでいた道は上からの照明があったが、果てが見えなかった。片側の電車は見える限り無限に続いていた。一都市で運行するにしてはあまりにも多すぎる数の電車があることに俺は気付いた。そのときは重要性がなさそうだった。ただ、それでもおそらくはもっと注意を払うべきだったのだろう。

どれほど歩いたのかはっきり分からない。そのときは腕時計をつけていたが故障した。あるとき携帯を取り出したが、何の反応もしなかった。ただ「信号なし」と表示されるだけだった。ストレンジャーは時折立ち止まり、1・2分間、電車を見つめて、それから通り過ぎた。奴の行動の理由を理解するのに時間がかかったが、ついには電車がどれも同じというわけではないことに気付いた。長い電車の行列はどれも似たり寄ったりに見えたが、その行動のときは異なるモデルに出くわしていた。少し大きかったり小さかったり、わずかに形状が異なったりしていた。操縦室、つまりは前方の車掌がいる場所が見た感じ違ってもいた。男が何を探していたのか、そのときも今も分からずにいる。ただ、確実なのは、最後に奴は探し物を見つけ出したことだ。なぜなら、俺と奴が再び角を曲がった後、俺の即席ガイドが電車の前で立ち止まったとき、そのドアが開いたからだ。俺と奴は中に入って、座席に座った。

「もう喋る気になったか」俺は奴に聞いた。答えはなかった。俺は苛立ってため息をつき、しばらく奴の顔を殴ってしまおうか真剣に勘案していた。すると、突然に車内の照明がつき、エンジンがかかる音が聞こえた。「何なんだ?」

男は悲しそうな顔をしていた。「もう戻ることはできない」

「何の話だ?どこへ戻るって?」再び反応なし。無視しやがって、お前は壁か何かか、この畜生が!電車はよろめいて動き出し、俺たちが来た方とは逆向きに進み出した。思うに、電車の無限のパレードのせいで俺の方向感覚は麻痺していたのだと思う。電車は数分間進み、駅が近づくと減速し始めた。奴の空虚なまなざしが鋭くなった。俺がいた方に向いているだけだったときと比べると、初めて奴が俺を見つめているという感覚を味わった。

「じっとしていろ。静かにしていろ。奴らの注意を引くな」

電車が止まり、ドアが開き、人々がなだれ込んできた。最初に何を認識したかは分からない。奇妙な服か、腕があまりにも長くて手が床をなでそうなほどだったことか、漆黒の目とやせこけた顔か、青灰色の肌か。俺の目にそんな刺激的なものがいっぺんに飛び込んできた。ただ、ほんの一瞬、脳が理解を拒み、そしてとうとう理解してしまったとき、喉からはち切れそうな金切り声が出るのをどうにか噛み殺した。心臓は爆発しそうになっていた。畜生、俺自身も爆発しそうになっていたと思う。俺はかき鳴らされるギターの弦のようになっていた。俺の中のありとあらゆるものがよろめき、震えていた。視界がかすんできたが、むしろありがたいことだった。さらには胃の中の物が喉から逆流してきた。俺は口を固く閉じ、それを無理矢理ぐっと飲み込もうと頑張って、どうにか成功させた。俺の本能は奴の言葉を叫んだ。じっとしていろ!静かにしていろ!奴らの注意を引くな!

あの日のことはぼんやりしている。俺と奴は地下鉄に乗って上り下りを繰り返した。じっと、無表情で、何時間も、おそらく何日も。俺の知る路線、つまりはストレンジャーを追跡したあの路線よりも遥かに長いようだった。俺たちの周りにいたあのおぞましいモノは俺たちに大して注意を払っていないようだった。俺たちはひどく目立っていたはずなのに。俺は恐怖であまりにも呆然としていたため、やっと無限に続く電車の洞窟に戻ってきたとき、一人泣き出してしまった。俺は床に倒れこみ、長い間、ただ咽び泣いた。ストレンジャーは無表情に眺めていた。

俺は自分を取り戻すと、奴を哀願するような目で見た。「俺を家に帰せ」俺はしわがれた声で呻いた。「お願いだ」

「無理だ」奴は言った。「どれが元の場所に通じるのか知らない。それもどれか通じるのがあればの話だが」奴は立ち上がり、プラットフォームの方へ歩き去った。俺は疲れた体を持ち上げて奴についていった。奴はすばやくぐるりと向きを変えてこちらを見た。「お前も十分俺を追い回しただろ」

かつて奴に感じた怒りは、パニックで一時的に埋もれていたが、再び俺の中で湧き上がった。「は?」俺は叫び声を上げて走っていき、奴の両肩を掴んだ。自分の中にあるとは知らなかったほどの狂気的な力を爆発させて、電車の側面に奴を叩きつけた。「この畜生め、俺に何をしやがった!?」俺は奴を何度も何度も叩きつけた。「俺を元の場所に戻せ!」奴は無抵抗で耐えた。そして、すぐに俺の中で燃えていた怒りの炎は消えていき、空虚が残された。「どうか」俺は懇願した。「どうか、家に帰してくれ」

「そのようにはできていない」奴は言った。「一緒にいると、気づかれやすくなる。自分でどうにかしろ。じっとして、気づかれにくくしろ。そうすれば、奴らはお前を仲間だと思ってくれる」

「どうしてこんなことを?なぜ?」

奴は再び悲しそうな表情をした。「そうしなければならなかったからだ。お前もそうなるだろう。お前は……行き詰まる、そのうちな」奴は俺の手を両肩から払いのけ、踵を返して歩き去った。俺は膝から崩れ落ちた。突然に力が抜け、立ち去る奴の姿を眺めた。交差点で奴は振り返って俺に顔を向けた。「すまなかったな」そして、行ってしまった。

俺はかなり長い間、その場所の冷たいタイルの上にとどまった。しばらく体を丸めて涙を流した。涙が渇いた後、どうにかいくらか眠った。目が覚めたときには、乗ってきた電車は出発した後だった。青灰色のおぞましい連中を乗せて、青灰色のおぞましい連中の行くべきところへ連れていくために。とにかく、あの場所へ戻ることはできなくなった。

最初に来た場所へ戻る道を探そうとした。自分の知る地下鉄を見つけるためだ。しかし、自分が向かっていたはずの方向でさえ、もはや確信が持てなかった。1時間歩き続け、さらにもう1時間。ついに、見慣れた外見のような気がする電車を見つけた。それか、渇望しすぎて電車がそう見えるように空想してしまっただけだったのか。ドアの方へ足を踏み出すと、ドアは勝手に開き、俺は座席に座った。電車が動き始めると、一生を不可知論者として生きるのをやめ、心が張り裂けそうなほどに祈った。電車は減速して停止し、ドアが開いた瞬間、俺は救われたと思った。人!人間だ!世界でいちばん神様のことを愛しています!

そのとき、俺は目のことに気づいた。見ると、第三の、大きな目が額の真ん中にある。クソったれだよ神って奴は。

それでも、前の連中よりかは受け入れやすく、そこには感謝した。ただ、第三の目は他の二つの目とは無関係に瞬きし、吐き気を催させる有様だった。そして、微笑んだり、声を上げて笑ったり、誰かと話したりしたときに、その歯に目が行かずにはいられなかった。その歯は尖っていて、不格好であり、不潔にも黄緑色だった。それでも、俺は注意を払って、見たくないものを見ないようにすれば、しばらくの間、自分が家にいるような気分になることはできた。サンドイッチを片手に持った奴が入ってきて、自分が飢えており、間違いなく数日間は何も飲み食いしていないことに気づくまでは。

次の終点に着いたときに、俺は何か食べ物や飲み物を探すことを決意した。どうして終点まで待とうと思ったのかは分からないが、終点まで電車に乗ることがどうも重要なことに思えた。終点に着くと、どうにか車両を出ることができた。俺はストレンジャーが地下を出るのを見たことがなかった。何か物を食べたり飲んだりするところも。それでも、俺の胃はノーという答えを受け入れようとはしなかった。俺は覚悟を決めて、慎重に平然とした表情を維持しようと努め、駅から出ていこうとした。そして、困惑した。

エスカレーターや階段の類を探したが、見つけたのは地面や壁、天井の穴だけだった。ぽっかりと開いた尋常でない大きさの穴。まるでハチの巣の中にいるようだった。どうすればいいんだ?中に入ればいいのか?穴を通り抜ける人が現れて、初めて意味が分かった。その人は床を浮き上がって通り抜け、俺の近くで浮遊した。その人は一瞬、眉をひそめた。少なくとも、俺には眉をひそめているように思えた。ただ、見たところ、地下鉄の中、少なくともこの場所までは、俺は異人とは認識されないようだった。残念ながら、俺は浮遊できなかった。地下鉄のハチの巣めいたモノから出るには宙を浮くしかないようだった。クソが。俺はトンネルの方へ戻っていった。

俺は怒り、途方に暮れ、飢えてもいた。地獄よりましだとしても、少なくとも二倍は馬鹿馬鹿しく、三倍は無意味な運命に身を任せていた。俺は最高の気分とは言えない状態だった。それが間違いの原因だったのだろう。普段は十分な距離をとって角を曲がる。公共の場で急に角を曲がれば、誰かと鉢合わせしてしまう可能性が高いことは誰でも知っている。俺はまさにそれをやらかして、誰かにぶつかった。女性だ。俺は地面に倒れ込んだ。考えなしに、ニューヨーカーがするような反応をとった。これがまずかった。「畜生が、このアバズレめ!どこに目ェつけてんだ!」

女性が行動を起こす前に、自分の間違いに気が付いた。女性の目が訝しげに、当惑を露にしながらこちらを見た。そして、俺のことに気が付き、恐怖で目が見開かれた。女性は俺の元から飛びのき、いや、すばやく浮き上がった。そして、叫び声のようなものを上げた。俺の知るものよりも、どちらかと言えば吠え声に近いものだったが、意味は理解できた。トンネルからずっと先に、異様な三つ目の頭が俺の方を向くのを見た。急に、連中の尖った薄汚い歯のことが思い浮かび、ただ逃げることだけを考えた。電車はそこにはなかったが、トンネル沿いに通路があった。修理用だろう。俺がいたところでは、修理人がこの手の通路を使っていた。俺は全速力で通路を進み、息を吸うたびに刺されたような感覚になるまで走り続けた。俺は立ち止まり、喘ぎ、そして振り返った。トンネルはカーブしていて、先の方はよく見えなかったが、誰も俺を追ってはいないようだ。ただ、戻るという選択肢はなかった。

長い間、暗闇の中を進み続けた。ついには壁に小さな空間がある場所に行き当たり、俺はそこで休息をとった。空腹、絶望、そして、全速力で恐怖しながら走ったことで、俺は力を完全に使い果たした。おそらく再び泣いてしまったのだろう。このとき自分にできるのはそればかりだった。しかし、それさえも手いっぱいだったようだ。俺は壁を背にして座り、両脚を広げ、あのクソッタレのストレンジャーを死ぬまでハンマーで殴るところを想像した。それが安心できる空想だった。

暗闇の中、近くをネズミがのろのろと歩き回っていた。時折、驚かして追っ払おうと足で蹴ったが、しばらくするとそれさえも気にならなくなった。狂犬病のような病気を運んでくるかもしれないが、奇妙な世界の地下鉄を、途方に暮れながら、衣食にも事欠く有様で、独りぼっちで永遠に旅することと比べれば、病もまた祝福だろう。再びネズミが近くまで這い寄ってきても、俺はシッと追い払うことをしなかった。ネズミが脚の方に来て、脚を圧迫し始めても、注意を払おうとは思えなかった。電車が近くを通り過ぎ、電車の照明が俺のいる排水渠を、そして、俺がネズミだと思っていたものを照らすまでは。

それはネズミに似ていた。まあ、ただ、むしろクモのようでもあった。ネズミとクモを一緒にかけ合わせれば、俺の脚に鼻を摺り寄せているモノと同じくらいにおぞましい奴が生まれるかもしれない。俺は金切り声を上げ、床から飛び上がり、サッカー選手のようにそれを蹴飛ばした。それは反対側の壁まで吹っ飛んだ。その背中は吐き気を催させるほどにボロボロに砕けた。俺はそれがピクピクと体をひきつらせるのを見た。最後の車両が通り過ぎ、暗闇が戻ってきた。

真っ暗な中、おぞましい考えが頭に浮かんだ。それは食べられるものなのだろうか、と。こんなの食べたいわけがない。俺はそんなことを想像するのをやめようとした。でも、俺は空腹で、今後、この場所で食べ物を見つけられる保証はなかった。ネズミクモは唯一の選択肢だ。できる限り我慢した。しかし、結局は、生存欲求が潔癖を打ち負かした。俺はライターを持っていたが、火をつけられるものがなかった。死体から肉を剥ぎ取り、火の上にかざして少し焼いたが、それほど役に立たなかった。あれほどのものはあり得ない。その肉は臭かった。これほど臭いものは誰も想像できない。それ以来も、食べ物がほしくてたまらなかったし、他にも胡散臭いものをたくさん食べてきたが、ネズミクモほどまずかったものはなかった。

思い返せば、あのときに俺はストレンジャーに成り果てたのだった。それまでは、無表情になろうと頑張りつつも、他は以前と同じままだった。平穏を求めて手に入れたものは茫然自失だった。川に投げ込まれた尖った岩は、時間が経つと、その角が水に削られて丸くなる。それと同じことを俺は経験した。異界の地下で、暗闇の中、怪物を引き裂いて食べた。残っていた最後の角が摩耗した。暗闇から出てトンネルに戻るまでに、俺をここまで連れてきた奴のように、俺は無表情で、空虚になっていた。

ただ、それは最悪のことではなかった。最悪は後になってやってきた。それは最初に行き詰まりが起きたときだ。ストレンジャーも言っていたことだが、俺も行き詰まりになるまで、ほとんど気付かずにいた。ある夜、終点で、電車を出るようにと言われた。この世界は普通の世界に近かった。俺の知る限り、人々はほぼ人間に近かった。彼らは肌がオレンジ色で、確か、せむしだったが、それでも他はほとんど普通と言ってよかった。前の世界の人々は、おぞましいほどに太っており、六つ乳房がある両性具有者で、鼻がなかった。オレンジの人々は俺からすればかなり美しかった。

最初、車掌は誰か他の人に話しかけていると思っていた。ただ、車両には自分しかいなかった。しかも、俺は車掌の言うことが理解できた。オレンジの人々は英語を話さなかったが、それでも、俺は車掌の言葉が理解できた。立ち上がると、それがなぜか分かってきた。俺はまっすぐに立ち上がれなかった。俺はせむしになっていた。車両から出るときに窓に写った自分の姿を見ると、肌がオレンジ色になっていた。そこから残りの手がかりを集めて、全貌が分かった。行き詰まるとはこの世界に囚われるという意味だった。どういうわけか、行き詰まるとその世界の人々と似た外見になった。地下鉄の駅から出たいときがあれば便利だ。たいていの場合は可能だが、ものすごく配慮が必要で、かなり無理がある。異界は少し不快感を催す場所だということを知っていた。自分の世界と比較すると、差異があまりに大きくて、気分が悪くなるのだ。

とにかく、俺は地下鉄を出た。その夜はセントラルハブ (地下鉄の電車が無数にある場所をそう呼ぶようになった) に戻ることがないとはっきりわかっていたからだ。他の夜のことだったかもしれないが、すぐに気が付いた。俺の存在を気付かせなくする効果がもう無くなっていた。この世界に留まることも少しは考えた。ただ、この場所は故郷ではないし、故郷になることも決してない。人々と自分の姿が似ていたとしても、文化が違っているはずだ。それが以前に学んだことだった。自分と人々の見た目が全く区別がつかない世界でさえも危険を孕んでいる。かつて、自分の姿と似た人々のいる世界に来たことがあった。何というか、人々はブラジル人に似ていたが、もっと似通ってもいた。このときの苦い経験で学んだことは、自分にとっては挨拶を意味するジェスチャーが、彼らにとっては何かひどく侮辱する意味だったということだ。かなりの侮辱だったために、人々が囃し立てつつ見物する中、俺はタコ殴りにされて半ば死にかけた。

自分が模倣できる文化がある場所だったとしても、そこに滞在する気にはなれなかった。俺が求めていたのはこの二つのうちのどちらかだ。自分の故郷へ帰る道を見つけるか、俺をここに連れてきたストレンジャーの野郎を見つけて叩きのめすか。これは譲れない。

だから、俺は移動したかった。ただ、前に自分がやられたようなことが俺にもできるかははっきり分からなかった。別の誰かを俺のように異界の地下をさまよわせることができるのか?実際のところ、そんなことをする必要はなかった。数か月後、俺の存在に気付いた奴が現れた。そう、そいつは数週間にわたって俺の後を追い始めた。かなり注意を払って奴のことを見ていないように振る舞った。あのストレンジャーがやったように。ただ、俺の中で奴に警告して追っ払ってやりたいという気持ちと、奴を終点まで連れていき、さっさとこんな陰鬱な世界から抜け出したいという気持ちに分かれていた。

夜、奴は俺を尾行して終点までついてきた。かつて俺がやったように。ただ、俺の真向かいに座るなどという蛮勇をふるうことはなかった。電車が終点に着くと、奴はすぐに駆け出して電車から出て行った。俺は待った。車掌が俺の姿を見ずに、座り続けることができるかもしれないからだ。しかし、無駄だった。車両を出ると、電車は俺を置いて出発した。俺は電車の中に向けて悪態をついた。切符売り場への角を曲がると、俺を尾行していた若い男が襲撃してきた。奴は危険そうな刃がカーブしたナイフを持っていた。不意をついて俺を捕まえる算段だったのだろう。しかし、俺は数年間、敵意に満ちた異界を旅してきた。俺の反射神経は鋭敏だった。

俺と奴は激しく争い合い、どうにか奴からナイフを取り上げることができた。ナイフがどうして奴の首に刺さってしまったのかは分からない。殺したいわけじゃなかった。かなり前に湧き上がった怒りのことを思い起こすと、それほど怒っていたわけでもなかった。それから、奴が血を流しながら倒れると、俺は腹立たしくなった。奴を繰り返し蹴り、叫び声を上げた。「このクソが!お前はこの俺を!」蹴り続ける。「尾行しやがって!」蹴る。俺は犯行現場を逃げ出したが、そのうちに逃げるのをやめた。翌日の早朝、始発に乗るためにその場所に戻った。そして、夜、終点まで電車に乗っていると、再び車掌の目に見えなくなった。もしセントラルハブに戻りたければ、誰かを殺すか、一緒に連れて行けばいいようだ。

俺の姿は再び見えなくなったが、まだ肌はオレンジ色で、せむしのままでもあった。次に行き詰まりになるまで、俺はそのままの状態だった。次のときも俺は人を殺した。そのときは前よりもかなり手っ取り早く済ませた。俺は女が尾行してくるのを待たなかった。一度、俺がストレンジャーと見なされると、俺はその女を次の奴だと認識できるようになった。そして俺は選択をした。他の誰かをこんな立場に追いやるつもりはない。

それでも、俺は自分を連れ去ったストレンジャーのことを考えずにはいられなくなる。奴はもともとどのような外見だったのだろうか。俺を殺すという選択肢もあったことを知っていたのだろうか。故郷にいた頃に見かけた他のストレンジャーや、故郷を追いやられてから出くわしたごく少数のストレンジャーについても考える。彼らは誰かを殺したり、連れて行ったりするだろうか。どちらの選択肢を慈悲だと思うだろうか。俺は連中と会話することができない。質問もだ。どちらにしても俺たちは永遠の呪いを受けている。呪われた亡者は孤独の中で苦しむ定めだ。

これまで15人の命を奪ってきたし、人殺しがかなり得意になってきた。ただ、俺は決断している。俺が殺してきたのは、少なくとも、罪のない人々だ。セントラルハブに戻る前に、俺はバックパックに詰め込めるだけたくさんの紙を入れて、この話を書いてきた。何度も何度も、できる限り多くの地下鉄にこれを残しておけるように。数千のメッセージを瓶に詰め、鉄のレールの海に投じてきた。これは要求であり、警告でもある。

俺の要求、それは最初に書いた通りだ。俺のお袋を探して嘘をついてほしい。それは罪のない嘘だ。気にしなくていい。俺はお袋を愛している、帰ろうと頑張っていると伝えてくれ。そうすればお袋もいくらか希望が湧くだろう。それか少し平穏に過ごせるかもしれない。この嘘が本当になればよかったのに。ただ、俺はこう思っている。俺はオデッセウスのようなものだとね。途方に暮れて、当て所もなくさまよい、馴染みのある岸に戻りたいと願っている。しかし、俺は海で迷っているのではなく、無限に続くトンネルの中、つまりは迷宮で迷っている。その違いは重要だ。なぜなら、迷宮は設計されたものであり、建築されたものだからだ。誰かが、もしくは、何かが、こんなあり得ない場所を作り出した。そして、奴らが俺にしでかしたことは、間違いなく奴らに責任がある。奴らは俺にオデッセウスではなくテセウスの役を割り当てた。ただ、俺はもうこんな役を演じるつもりはない。この地の奇妙なルールが、人間として生まれた俺を別の何かに変え、さらにまた別の何かに変えた。奴らは俺を怪物に変えた。そして、俺は迷宮のミノタウロスになる。もし可能なら、俺は周囲の迷宮を破壊し、迷宮を建てた奴らを打ち砕く。

俺の警告は、公共の場所にいる、静かで無表情の男女に気を付けろ、ということだ。近づいてはいけない。連中はお前を殺すか、もっとひどいことを仕掛けてくる。連中を見かけたら、急いで走って遠くまで逃げろ。そしてもっと重要な警告だ。聞いてくれ。電車で終点まで行ってはいけない。

2021年5月20日木曜日

Creepypasta私家訳『09/17/10』

作品紹介

 Creepypastaである09/17/10を訳しました。 Creepypasta Wikiでは“Suggested Reading”に指定されています。 誤訳などがあれば指摘をお願いいたします。 正確な訳かどうかは怪しいですが、だいたいの意味は通っているはずです。

作品情報
原作
09/17/10 (Creepypasta Wiki取得。oldid=1407923)
原著者
Bongwatersnowman
翻訳
閉途 (Tojito)
ライセンス
CC BY-SA 4.0

09/17/10

数か月前、チコ州立大学で授業が始まった。1年生の授業に向けての準備をする中で、必要なものすべてを見つけることができた。ノートパソコンを除けば。私は金を出して物を買うのを渋りがちだった。特により安く手に入れられるときは。

ノートパソコンを良い値段で買えないかインターネットで調べて回った。しかし、自分のケチな性向に見合うものはなかった。授業まであと2週間しかなく、コンピュータがほしくてたまらなくなってきた。数日後、新聞でノートパソコンの広告を見かけた。ほんの600ドルで売っているという。私が住むところからそれほど遠くない。しかも、とても良い感じのDellのノートパソコンだ。ただ、店での売値よりも1,000ドルほど安く売っているのは変だとも思った。

翌日、売り手の住所へ車で向かった。その家は都市から離れたところにあり、そのすぐ近くに鬱蒼とした森があった。家の外には古いシボレーが停められており、古い掲示物や他の様々な古そうな見た目のものが散らばっていた。ドアベルを鳴らすと、フランネルのジャケットを着た痩せた男が出てきた。ノートパソコンについて尋ねると、安心したような風で、すぐに売る準備ができていると言ってきた。幸運にも、私は金を持ってきており、良い状態にあることを確かめた後、新しいコンピュータを持って帰宅した。

初めて自分で買ったノートパソコンに興奮しつつ、電源を入れ、プログラムやアプリケーションのアップロードを始めた。ハードドライブを調べていてすぐに、フォルダが隠されていることに気づいた。奇妙だった。パソコンを売った男は、メモリは綺麗に空にして、新しく使い始めるための準備がしてあると言っていた。フォルダには「09/17/10」という名前がついていた。どうやら日付のようで、2010年9月17日という意味だろう。フォルダを開けてみると、6つの映像と3枚の写真があった。好奇心に突き動かされ、映像を見ることに決めた。

最初の映像は単に「001」というタイトルだった。映像は車の中からカムコーダで撮影されたもので、手ぶれしていた。映像は夜で、バーから女性が歩み出てきて、車に乗る様子が記録されていた。数秒後に女性が車を発進させ、その直後に、映像の撮影者も女性を車で追い始めた。映像は24秒後に終了した。撮影者はしばらくの間、女性を待っていたようだ。

考えてみると、その時点まではそれほど不安はなかったが、ただ少し落ち着かない気分ではあった。次の映像ファイルを開いた。タイトルは「002」だ。これは最初の映像の続きなのだろうと推測した。その推測は正しく、カメラがキャビネットの上に置かれ、フロンドガラスから外を向いた状態で開始された。雨が降っていることから、最初の映像が終わってから少し後に撮影されたのだろう。どうやら、撮影者の車から2両分前にある車が、バーを出た女性が乗ったものと同じ車であるらしい。この落ち着かなくさせる47秒間が続いた後、カメラが停止した。私は少しびくびくし始めた。最悪の展開になることを恐れた。

しかし、テレビ番組を見ているかのように、この映像の顛末を見たくなった。まだ心配しきったわけではなかったため、次の映像を見ることにした。3番目の映像はもちろん「003」という題名だった。この映像を見た後は本気で心配になった。映像は最初と同じく、震える手で握られたカメラからのものだった。車の外は土砂降りだったため、撮影対象ははっきりとは見えなかった。それでも、毛皮のコートを着て、傘を持った人物が家の玄関の方に歩いているのが辛うじて分かった。この人物が誰か、家が誰のものかだけは推測できた。その人物は家に入り、ドアを閉めた。

その後には静寂が続き、とても狼狽させられた。唯一聞こえたものは車の屋根に雨が叩きつけられる音だけだった。この神経を逆なでする何もない時間がだいたい2分続いた後、家の中からの明かりが消えた。さらに1分ほど経過すると、カメラが再びキャビネットの上に置かれ、誰かが車を出る音が静寂を破った。車のドアが静かに閉められ、新たな人物がカメラに映った。その人物はこの時点ではフードを被っており、家の方へ歩いていくのが見えた。部外者らしき人物が家の裏手の方に向かって歩き回っているのを見るにつれて、胃の底できりきりとした痛みが強まり始めた。この人物が誰であっても、間違いなくそこにいるべきではない人物だろう。それから数秒後、家の外の明かりが消えた。画面は真っ黒で、雨の音だけがカメラがまだ録画中であることを伝えていた。雨と暗闇が9分ほど続いた後、映像は終わった。

私はこれがちょっとした無害な企てか何かではないことを確信していた。ノートパソコンを売った男が信用できるか確認しなかったのは愚行だったとも思い始めていた。女性の後をつけ回しているこの人物は、私が前に会った人物と同一人物なのだろうか。映像を見続ける中で、うっすらと警察に通報しようかと考えていた。しかし、まだ心構えができていなかった。気が進まないながらも、4番目の映像「004」を見始めた。映像は再び暗闇から始まったが、雨はやんでいた。ただ無音の中に取り残されていた。映像が始まってからほどなく、誰かが砂利の上を歩く音が聞こえてきた。その人物が車に近づき、音は徐々に大きくなっていった。車のドアが開き、室内灯がついた。すると、カメラは車の床に置かれており、天井の方を向いていると分かった。背景でいくらか手探りする音が聞こえ、急にトラックの後方からガツンという音がした。不意にカメラの視界を腕が遮り、大きなタープが車から引き出されるのが見えた。ただ一つの筋書きが脳裏をよぎった。予想が外れることを祈った。

トラックの写真。早い段階で撮影されたもの。

誰かがカメラを拾ってキャビネットの上に戻し、車をバックさせ始めた。3分間車を走らせた後、分岐した道で駐車し、車を出て積荷を運び出した。6分後、車は別の場所に移動し、誰かがカメラを拾い上げてこそこそと車から持ち出した。車はノートパソコンを売った男の家の前にあったものと同じ、あのろくでもないトラックだった。あのゾッとする男に対して警察を呼ぶ覚悟を決めるところだったとき、カメラが家の方を向いた。家は以前に訪れたそれと全くの別物だった。これを見て少し安心した。何の証明にもならないが。

4番目の映像が終わり、次の映像を見ようかどうか思案した。これがいたずらであるか、少なくともハッピーエンドであればいいというのが私の唯一の望みだった。「005」は家の中から始まった。非常に暗く、唯一分かったのは時折カメラの前を歩いているらしい人影の存在だけだった。最初は静かで、ときどき外で犬の吠え声が聞こえた。そのうちに、小さな音が聞こえ始めた。

小さな音はすぐに大きなくぐもった叫び声に変わった。身を揺り動かしてもがく音が時間がたつにつれて如実になってきた。泣き叫ぶ声も。不意に明かりがつき、カメラが持ち上げられ、部屋の中央に向けてパンした。カメラに映ったのは、殴られて血を流し、椅子に縛り付けられていた女性だった。映像を見て分かったが、この女性は最初にバーを出た女性と同一人物だった。永遠とも思える時間の中、カメラが女性の顔にズームし、そして、映像が停止した。こんなことが起こるとは信じられなかった。もともとずっと抱いていた、この映像は映画か何かだという希望は消え去った。残りの映像は一つだけとなり、自分自身の身の安全を恐れ始めた。ドアを施錠し、ブラインドを閉めた後、映像を再生した。

「006」を見始めたとき、女性はまだ生きていて、助けることができるという小さな希望を抱いていた。ホラーショーの最終回はバスルームのセットの中で始まった。カメラはカウンターの上に置かれており、鏡に向けられていた。鏡の中でドアが見えた。唯一聞こえた音はなじみのあるもので、私の希望を打ち砕いた。動力工具の音だ。スクリーンの前に座っていた時間は数時間にも感じられた。工具の音が止まり、静かになった。そして、重い足音と、何かを引きずっているような音がした。ドアノブがひねられ、ドアが押し開かれた。暗闇から現れたのは中年女性だった。女性は研究所の人のような装いとしか言いようのない格好をしており、ガーゼマスクと長いゴム手袋を身に着けていた。この光景を見て、どういう妙な理由によるものか、少しばかり安心感を覚えた。鏡の中に、女性が何かをバスタブへ頑張って引きずる様子が写っていた。女性が引きずっていたそれをバスタブに入れようと持ち上げたとき、大きな黒いゴミ袋が見えた。

若い女性の静止写真。

夢を見ているような感じがした。スクリーン上に流れるホラー映画を見ているかのようだった。女性はゴミ袋をバスタブから引き揚げた。この時点でゴミ袋は空っぽだった。零れ落ちかけていた内臓か何かを除けば。女性はカメラを拾い上げ、床に置き、バスタブの方に向けた。バスタブの前の床には、腐食性の物質やいくつかの他の空容器が置かれていた。女性は液体をバスタブの中に入れ始めた。すると、ひどい、とてもひどい音がし始めた。ポップロックにコークを混ぜたような音としか形容できない。映像が終わると、当惑し、恐慌した私が残された。最後に私は写真を開いた。1枚目はトラックの写真だった。2枚目は、椅子に縛り付けられた若い女性の写真で、殴られる前だった。そして、3枚目を開くと「破損したファイル」という表示が出てきた。しかし、多分、それでよかったのだろう。

どうにか2枚の写真を手元に残してから、ノートパソコンを警察に引き渡した。600ドルは取り戻すことができた。報奨もついていた。どうやら、被害者は中年女性の元夫のガールフレンドだったらしい。中年女性は1年ほど前に逮捕されたが、証拠不足により何の罪にも問われることなく釈放された。代わりに元夫が投獄された。これはミッシングリンクになると思う。この証拠によって答えの出なかった疑問が解決することを望む。ただ、フランネルのジャケットを着た男が何者だったのか、ノートパソコンをどうやって入手したのか、殺人犯と同じトラックをどうやって手に入れたのかははっきりしていない。後は警察に任せようと思う。

2021年5月15日土曜日

Creepypasta私家訳『写真の少女』(原題“The Girl in the Photograph”)

作品紹介

 CreepypastaであるThe Girl in the Photographを訳しました。 Creepypasta Wikiでは“Suggested Reading”や“Historical Archive”に指定されています。 誤訳などがあれば指摘をお願いいたします。

作品情報
原作
The Girl in the Photograph (Creepypasta Wiki取得。oldid=957385)
原著者
不明
翻訳
閉途 (Tojito)
ライセンス
CC BY-SA 4.0

写真の少女

ある日の学校、トムという少年が計算問題を解いていた。放課後まであと6分というところだった。宿題をしていると、何かがトムの目を引いた。

トムの席は窓の横だった。トムは外の芝生の方に顔を向けた。それは写真のようだった。学校が終わると、トムはそれを見た場所に向かって走った。早く走ったおかげで、誰にも取られないで済んだ。

トムはそれを拾い上げ、そして笑みを浮かべた。それは今まで見た中で最も美しい少女の写真だった。少女はドレスを着て、タイツを身に着け、赤い靴を履いていた。手はピースしていた。

少女があまりにも美しかったため、トムは少女に会いたくなった。トムは学校中を駆けずり回り、皆に少女のことを知っているか、以前に会ったことがないか聞いて回った。しかし、質問を受けた全員が「いいえ」と言った。トムは落胆した。

家にいるときも、姉に少女のことを知らないか聞いたが、残念なことに姉も「知らない」と言った。すっかり夜も更け、トムは階段を上り、ベッドわきのテーブルに写真を置いて、眠りについた。

真夜中、トムは窓をコツコツと叩く音で目を覚ました。爪で叩いているようだった。トムは怖くなった。窓を叩く音の後、くすくす笑う声が聞こえた。窓の近くで影が見えた。トムはベッドから出て、窓へ歩み寄った。そして、窓を開け、笑い声の方についていった。辿り着いたときには、それはいなくなっていた。

翌日、トムは再び近所の人たちに少女のことを知っているか質問した。皆が「ごめん。分からないよ」と言った。母親が帰宅したとき、トムは母親にさえも少女のことを知っているか聞いた。母親は「知らないよ」と言った。トムは自分の部屋へ向かい、写真を机の上に置いて、眠りについた。

トムは再びコツコツと叩く音で目を覚ました。写真を手に取り、笑い声の方についていった。道路を渡っていたときだった。トムは突然に車に撥ねられた。トムは写真を手にしながら死んだ。

運転手が車から降りて、トムを助けようとしたが、もはや遅すぎた。不意に運転手は写真を見て、拾い上げた。

彼が目にしたのは可愛らしい少女だった。指を3本立てていた。