画像RSS

2023年5月13日土曜日

Creepypasta私家訳『歯車の間に』(原題“There's Something Between the Gears”)

歯車の写真

"Gears of Wear" by Dave Herholz is licensed under CC BY 2.0.

作品紹介

There's Something Between the Gearsを訳しました。Creepypasta Wikiでは“Spotlighted Pastas”に指定されています。“June-July 2015 Demon/Devil Writing Challenge”への出品作であり、悪魔やカルトの要素がある作品です。

作中に登場する固有名詞に何か意味や由来があるのかは分かりませんでした。Note支部でのコメントで指摘がありました。例の固有名詞はおそらく「society」(= 社会、世間) のもじりです。

作品情報
原作
There's Something Between the Gears (Creepypasta Wiki、oldid=1298365)
原著者
Whitix
翻訳
閉途 (Tojito)
ライセンス
CC BY-SA 4.0

歯車の間に

こんにちは、未来の進化主義者の君! これを読んでいるということは、人類が衰退の途上にあると考えているということ。進歩のための論理的な筋道はただ一つ、人類は進化しなければならない、そう考えているはず。そして、そんな偉業を達成する方法はただ一つ、テクノロジーを利用すること、そう考えているはず。産業進化主義を奉ずる我々は君の声を聞き、君と同じ関心を抱いています。我々はこの課題の研究に数年を費やしました。解決策を、進歩のための方法を発見できたと考えています。さらなる情報に興味があれば、案内に従いこちらの住所へどうぞ……。

ルーカスはチラシを指で挟んで持ちながら、もう一度ざっと目を通した。チラシには「機械の栄光」やら何やら、説教じみた戯言が書き連ねられていた。各部の内容は大して意味を成さず、チラシ自体はMicrosoft Wordを使って5分で作られたかのように見えた。「テクノロジーを最大限利用する」とか「テクノロジーを利用して利益を上げる」といった内容であると考えると、強烈に皮肉な文言が延々と続いた。

控え目に言っても、産業進化主義運動は、ルーカスがカルト活動の可能性のあるものを調査をすることになると伝えられたときに想像していたものとは違っていた。ルーカスは以前から秘密調査に従事し、熱心な信仰家たちに対処してきたが、その二つを同時に実施したことはなかった。そのため、かなりの不確実さを伴いながらも、ルーカスは産業進化主義者の調査に同意した。ルーカスの上司は多くを語らなかった (そうでなくても、少なくともルーカスは多くのことを記憶できなかった。任務の概要についての記憶は少しモヤモヤとしていた)。しかし、ルーカスはチラシを手渡され、そのチラシに知る必要のあることが書いてあると説明されていた。

チラシにはこの運動の理想についての概要が記されていた。その理想とは、テクノロジーの適切な利用、人類の機械への依存やその継続、人類が辿るべき「進化の筋道」の提案である。しかし、それ以上の情報は乏しかった。ルーカスは依然として調査対象についてそれほど詳しくは把握していなかったのである。ルーカスはカルト活動の可能性のあるものに警戒することになっていたが、産業進化主義者を「カルト主義者」と糾弾する材料はなかった。確かに、産業進化主義者たちは非現実的な概念に従う見当違いの楽天主義者であるように見えたが、真偽がどちらにしても、どんな宗教においても同じことが言える。

それでも、新参者を装ってカルトに入り込むというアイディアは確かに興味をそそられた。ルーカスは自分の車の窓から、産業進化主義者たちが言うところの「お屋敷」を眺めた。実のところ、件のコミューンの会合場所は、市の産業区画のど真ん中にある荒れ果てた倉庫に過ぎなかった。その場所は長らく放棄されていたようで、窓は腐った木材が打ち付けられ、壁はコンクリートにヒビが入っており、くすんだ赤いペンキで塗られた欠片が転がっていた。産業進化主義者の会合場所であることを示す印は一つもなかった。即座にいくつか疑問が湧いてきた。信者たちは非合法的にこの場所にいるのか。それが正しいとして、いつからそんなことに。もちろん、疑念を抱かせることなく質問できそうにはなかった。

ルーカスは件の倉庫に何気なく入り込む人々を慎重に凝視した。男性、女性、若者、老人、様々な体形の人々が身を屈めてドアを潜り抜け、視界の外に消えた。ほとんどの人が、良く言えば注意深そうな、悪く言えば偏執的な表情をしているように見えた。彼らはぎこちなく心地悪そうに足を進め、皆が一貫して肩越しに一瞥し監視されていないか確認していた (実際、監視されている)。50人ほどを数えたところで、ルーカスは車から足を踏み出し、涼しい夜の中を進んでいった。そよ風が後頚部を撫でたとき、ルーカスは時間を確認した。11:50。ちょうど会合が始まる頃合いだ。

ルーカスはコートを引き上げ、帽子を目深に被り、手をポケットに押し込むと、通りを渡り始めた。しかし、渡りきる前に、車が背後から突っ込んでくるのを感じ取った。ルーカスは本能的に振り返り、若い女の姿を見た。女の頭は灰色のフードでほとんど見えなかった。女は恥じらいの笑みを浮かべた。

「ごめんなさい!」

女は咄嗟に声を上げた。

「注意不足でした。車から急に出てきたものだから、全然姿が見えていなかったんです!」

ルーカスは穏やかに微笑み返した。信者たちには友好的に振る舞いたかった。「大丈夫」とルーカスは冷静に言った。

「あの、僕、実は全くの新人なんです。産業進化主義運動の人ですよね。できれば案内してもらえますと……」

ルーカスは倉庫の方を指して、言葉を消え要らせた。

「え! いや、違うんですよ……いえ、いや、あの……」

女は慌しくしわくちゃのチラシを取り出した。チラシはルーカスがポケットから取り出したものと同じものだった。

「私も今回が最初の会合なんです! えっと、1週間前にこのチラシを貰って、面白そうでしたから、もっと話を聞きたくて、その……ここに来ました! あの、ここで場所は合っていますよね。いや、あなたも新人だって知っていますけど……」

「そのチラシの住所が正しいとすれば、そうですね、ここが正しい場所です」

「良かった! でもよく分かんないですけど、何だか、ひどいっていうか、ね? どこもかしこも壊れていて……ボロボロ。分かんないですけど、想像以上っていうか。あの! えっと、もし良ければ、どこでチラシを貰ったか聞いていいですか。えっと、あなたも持っていますよね。こんなチラシ」

女はチラシを掲げた。

「あなたと同じように郵便で来たんですよ」

正直なところ、ルーカスはチラシの入手元について考えておらず、答えを用意してもいなかった。女の答えを拝借すれば上手くいきそうに思えた。

「へえ、あなたも。あー。いいですね。ああ、うん、変、ですね。どうやって産業進化主義の人たちはチラシの宛先を知ったんでしょう」

ルーカスは女がこの話題に不安を抱いていることに留意した。

「あっ! ところで、私、アリサです」

女はしきりに手を差し出して、話題を変えた。

「イアン・ジェームスです」

ルーカスは返答し、丁重に握手を交わした。

「かなり寒くなってきましたね。中に入った方がよさそうです。誰かがどこに行けばいいか教えてくれるといいですけど」

「そうですね!」

アリサは同意して、ルーカスの横に付き添って通りを渡った。

黙って歩く中、ルーカスは密かに思った。アリサは少し熱狂的ではあるが、害は無いようだ。産業進化主義者たちが集めているのがこの手の人々となると、大して問題にはならないはずだ。

ルーカスとアリサは倉庫の錆び付き色褪せたドアに近づいた。ルーカスはドアを開け、アリサに先に入るように促した。アリサは微笑むと、カーテシーの真似をし、倉庫の中へ入った。ルーカスも後に続くと、すぐに暖かい空気の波が顔に当たるのを感じた。倉庫の中に踏み込み、周囲にいた60名ほどの人々をじっと見つめた。人々は様々な世俗的な話題について嬉しそうにお喋りしていた。部屋は頭上の照明のおかげで十分に明るかったが、人々の上方には靄がかかっており、そのせいで光が少し遮られ、熱が遮断されていた。石炭や煙の臭いの他、別のものの臭いもしたが、ルーカスにはそれが何の臭いか思い出せなかった。折り畳み椅子が木製の講壇の前に並べられており、講壇はステージか何かの役割をしていた。講壇の最上段には演壇が置かれており、布が被さった大きな長方形の物体も置かれていた。ルーカスは長方形の物体の特徴を把握しようとしたが、布で覆い隠されていてよく分からなかった。その物体は縦60センチ、横90センチほどの大きさで、部屋中を漂う靄は布の下から出てきているようだった。

「イアンさん!」

ルーカスは部屋中を見渡して、アリサが席に着き、隣席を軽く叩いているのが見えた。アリサはフードを脱いでおり、長い茶髪を肩の上に垂らしていた。ルーカスはアリサの方へ歩み寄って腰を下ろした。すぐに部屋の中の他の信者に質問するのではなく、周囲に溶け込むのが最良だと判断した。他の人も数名は座っており、そんな人が部屋のそこかしこに散見されたが、ほとんどの人はグループを作って立っていた。ルーカスは近くの人の会話に耳をそばだてた。

「……今夜は誰になると思いますか。志願しようと思っていますけど、メイソン神父が僕を選んでくれるとは思えなくて」

「……新しく来た人が何人かいるみたいです。運動の主張が広まっていると分かっていいですね。彼らはきっと必要になるでしょう」

「……生贄? いえ、一方を他方へ溶け込ませるということですよ。生贄というのは正確ではない言い方です」

最後の話を聞いて、ルーカスは少し用心した。普段の会話では大抵「生贄」などという言葉について話題にはしない。ルーカスはそのような話に繋がったものが何かを知りたかったが、疑われずに直接質問することはできなかった。何か違和感があるが、何がおかしいのかを示す証拠やアイディアがあるわけではなかった。それでも、ルーカスは懸念を表情には表さず、無表情で前方をじっと見ていた。しばらくして、ルーカスはアリサの方に顔を向けた。アリサは興奮の中、独りでに不規則な旋律で鼻歌を歌っていた。

ルーカスは「あの……」と話を切り出し、アリサの気を引いた。

「産業進化主義運動について何か知っていますか」

アリサは後頚部を掻き、思案してから話し始めた。

「あんまりです。チラシに書いてあることを読んで、インターネットでもっと深くまで調べて、それで終わりですね。この運動が何なのか、要点は知っていますけど、それ以上は分かりません」

「本当ですか。インターネットで何か見つかったんですか。調べようとすら思いませんでしたよ」

実のところ、ルーカスはインターネット上で広範囲の調査を行っていたが、産業進化主義者たちに関する言及は一切発見できなかった。ルーカスはアリサが何かを掘り当てたと聞いて驚き、少し疑念も持った。

「えっと、名前で推測できると思いますけど、この運動は産業革命の延長なんですよ。少なくとも、産業革命の基本的概念の延長ではあります。そうですね……機械の革新と、人間の生活の持続的な向上、みたいな感じですね。あ、待ってください、言い方が悪かったです。そうそう、こんな感じでした。……機械は人類の本質的な延長であり、即ち人類の前進への焦点となるはずである。それは進化における次なる進歩である。伝わりましたかね」

「なるほど」

「良かった! それが運動の背景にある核心的な信念です。他にもですね……」

アリサの声音に不快感の色が混じった。

「この運動には崇高な機械存在への信仰を中心とした側面もあるみたいです。でも、そんなの本当は違うんじゃないかと……」

このときになって、ルーカスは関心を抱いた。

「続けて。どんな信仰ですって。この機械存在ってものについても」

「あー……えっと、読んだ記事の中で名前がずっと出てくるんですよ。『ソー・セイティス』(So-Saitys) って奴です。他には情報は何も……」

「何者なんでしょうね。『ソー・セイティス』でしたっけ。神か何かでしょうか。もしかして悪魔?」

「よ、よく知りません。『神』より『悪魔』に近いと思います。でも、『悪魔』って言葉では多分、表しきれていませんね」

「ソー・セイティス様万歳! 彼の地獄の機械よ!」

ルーカスとアリサは背後から聞こえた声の方に振り向いた。老年の薄汚い男が2人の方に向かっていた。男の顔はニヤリとした熱狂的な笑みで引きつっており、顔中には病気のような灰色の斑点が広がっていた。男はアリサとルーカスの椅子に手を置いた。両手にも灰色の斑点が広がっていることにルーカスは気付いた。

「新人さんはいつだって大歓迎! 私がメイソン神父。ところで、私が産業進化主義運動を率いていましてな。我々のことをよく知っているようで驚きましたよ、お嬢さん。この会合にいらっしゃる方のほとんどは運動について進んだ知識を持たずに来ますからな。でも、お嬢さんはよく調べなさったようで」

アリサは一言も言わずにメイソン神父に微笑んだ。

「すみません。私はイアンと言います」

ルーカスの言葉が沈黙を破った。メイソン神父はルーカスに微笑んで、頷いた。ルーカスは話を続けた。

「私はイアン・ジェームス。こちらはアリサ。ソー・セイティス様についてもっと教えてもらえますか。この運動でのソー・セイティス様の役割をよく知らないので」

「おお。知識への欲求を見ると快活にさせてくれますな、ジェームスさん。じっとただ座っていなされ。説教に耳を傾けよ。さすれば、君の疑問は解消されましょうぞ」

ルーカスは笑みを浮かべ、頷くと、手を差し出した。

「分かりました、そうします。この運動について深く知るのを楽しみにしています」

メイソン神父はルーカスの手を握った。

「私も教えるのが楽しみ。お二人に会えて光栄ですぞ! 是非とも説教を最後まで聞いていてくださいな」

メイソン神父は講壇の方へ歩いていき、時折立ち止まると、他の人々と挨拶やお喋りをした。ついに講壇に上がると、緊迫感の波が人々の間に広がった。人々は沈黙し、席を探しに急いだ。メイソン神父が話し始めるときには、喋る人はほとんどいなくなっていた。ルーカスはひたすら座り続け、かなりの関心を持って耳を傾けた。ルーカスの目にはカルトの根源が形を成し始める様が確かに見えていた。

「こんばんは、皆様!」

メイソン神父の声が倉庫中に轟いた。

「今夜はこれほどまでに大勢の方にお越しいただき感謝しています。何人か新人の方もいらっしゃるようで。大変心が暖まりますな。我々の小さなコミューンも明らかに成長しています。拙僧も期待に胸を膨らませております」

「でも、皆様は私のお喋りに付き合いにいらっしゃったわけではありませんな。皆さんは人類の未来に興味があってここに来た!」

人々からいくつか歓声が上がった。ルーカスは沈黙し続け、椅子に寄り掛かった。

「他の誰にも我々と同じことをする勇気が無かったからここに来た! 世界中の政府組織が我々の窮状に目を背けてきたからここに来た! 皆様の援助を求める叫び、関心を求める請願、心配は黙殺されるばかり! 他のいわゆる『信仰運動』は皆様に背を向けた! 連中は商業主義や理想論の原理、単なる人間の怠慢により堕落しきっている! 我々こそが人類の最後の希望! 我々が為さねばならぬのは、他の誰もができないだからだ!」

再び倉庫中に歓声が響き渡った。前以上の熱狂だ。ルーカスもそれに加わり、それにも関わらずニヤリと笑った。連中は明らかに狂っている。連中をやりこめても全く問題はないだろう。

「皆様は所以があってここに来た!」

メイソン神父は話を続け、木製の講壇の上をゆっくりと歩き回った。

「皆様は来る時代に人類を導くべく、偉大なるソー・セイティス様に選ばれた! ここに来たのは全くもって偶然などではない!」

メイソン神父はこう言ってすぐ、ルーカスの方をちらりと一瞥したように見えた。ルーカスはニヤニヤと笑い、先ほどの発言に皮肉を見出して面白がった。ルーカスはアリサの方に目をやった。アリサも歓声を上げて叫んでいると想像していた。しかし、アリサは静かに座り、不安そうに自分の手を弄っていた。

ルーカスは身を寄せて、アリサの耳元で囁いた。

「大丈夫ですか。少し緊張しているように見えますが」

「ええ? あ! いや、ちょっと不安なだけですよ。一度にこんなに色々あると理解が大変で」

「我々は自らの運命を切り開くための道具を持っている。だがしかし……道具は使われないままだ! 道具は隅に置かれ、埃が積もり、全くもって些細な状況で使われるばかり! 今こそ言う、こんなのはもう沢山! 産業革命以来、テクノロジーがそれほどに多くの人の生活を変えたことはない! 来る時代、私は人類を栄光へと引き込むつもりです、人類が望もうと望まなかろうと! 進歩を恐れる人がいるからといって、我々人類を苦痛に追いやったままにするのはもう御免!」

メイソン神父は話を止め、人々が同意して歓声を上げるまで待った。ルーカスにはメイソン神父が何を話しているのか理解できなかったが、立ち上がってメイソン神父を囃し立てた。ルーカスは熱心で頭が空っぽの崇拝者の振りを楽しんだ。

「ソー・セイティス様は我々に未来の道具とその道具を動かすチャンスをお与えになった! 我々はただ火に燃料を注げばいい。そのような機械を動かすのに必要な人的資源という名の燃料を。そういう意味で、我々は彼の地獄の機械を動かす度に、我々人類を駆動させるのです! それで、どうして我々が今夜ここに集ったか! 人類を進歩させるため、我々はこの機械を動かさねばならぬ! 我々はソー・セイティスという名の機械を動かさねばならぬ! これこそ我らが目的! 機械に燃料を注がねばならぬ! ソー・セイティス様に燃料を注がねばならぬ! 我々は彼の業の完遂を見届けねばならぬ!」

ソー・セイティスを称える声が飛び交う中、メイソン神父は壇上の長方形の物体から布を剥ぎ取った。そこにあるのは大きく奇妙な機械だった。それは大きな産業機械であり、数多くの剥き出しの回転する歯車が詰め込まれた鋼鉄の箱だった。側面には文字盤や計器が並び、その隣にはピストンや煙を吹き出すパイプが並んでいた。緩くなったワイヤーから火花が舞い、機械のてっぺん付近の煙突から靄が放出されて部屋を覆った。機械の側面には大きな回転するクランクがあり、大きな一続きの歯車やベルトに接続されていた。機械の末端の近くには投入口か何かがあり、人1人を押し込めそうなくらいに大きかった。金属と金属を打ち付けたカチンという音が響く中、その装置はくぐもったブンブンという音を発していた。

ルーカスは椅子に深く座り、目の前の光景を観察した。それ以外の人々は恍惚としており、椅子から跳び上がって件の機械に近づこうとする人もいたが、メイソン神父から追い払われていた。部屋はより濃くなった靄で充満した。聴衆の連なる声が上がるにつれて、機械が発する音も大きくなっていくようだった。アリサは椅子に深く座りつつも、壇上の機械を興味深げに眺めた。ルーカスは機械の目的について少し心配になったが、それをできる限り隠そうとした。周囲の人々はこれまで通り無害のままだが、ルーカスは目の前の機械の正確な目的を把握しているか不安になった。そんな不安を抱いていたが、ルーカスはこれから何が起きたとしても、新米信仰者の振りを続けることにした。周りの人々が本当は危険だったとしても、ルーカスには上手な立ち回りが必要とされていた。

「想像していたのとは違っていたりして?」

ルーカスがアリサに目をやると、アリサは苦々しげにニヤリと笑みを浮かべてみせた。

「イアンさん、わ、私、あなたは良い人だと思っています。ここに来たのは初めてだってのも知っています。でも、出ていった方がいいと思います。これから数分以内に起こることは、あなたは関与したくないことだと思うんです」

ルーカスはアリサを訝しげに見つめ、アリサが気付いた何かに不安を覚えた。それでもなお、ルーカスはとにかく残らなければならなかった。

「からかっているんですか。これから面白くなってきたところでしょ! 出ていきませんよ……もっと知らないと」

アリサは躊躇いつつも、首を横に振った。

「ここで働く力はあなたも私も太刀打ちできません。あなたはあいつらの言い分に関与したくないはずです」

ルーカスが返答できるようになる前に、メイソン神父が説教を再開した。

「さあ御覧なさい! こちらがソー・セイティス様、彼の地獄の機械です! 我らが同胞の中で彼の機械に加わる価値のある者は誰ですかな。彼の機械に燃料を注ぎたい者は誰ですか。自らの肉体を使って人類の進化を推進する力にするのです。自らの肉体を彼の歯車の上へ永遠の穴の中に投げ打ちたい者は誰ですか」

数多くの人々が跳び上がり、手を上げてそのチャンスを請うた。ルーカスは座ってじっとしていた。何が起ころうとしているのか恐れて、冷や汗が突然に吹き出した。メイソン神父は部屋中をじっと見つめ、様々な信者に指をさしては、首を横に振った。これが1分続いた後、メイソン神父は手を上げて、聴衆を静かにさせた後、説教を続けた。

「皆様の熱意に感謝します。でも、今夜は特別な機会。さあ、こちらには特別なゲストがいらっしゃいます。ソー・セイティス様は我らに肉体をお送りなさったのです」

人々の間で微かな騒めきが走った。ルーカスは座ったまま、機械に目を向け続け、疑われないように努めていた。ルーカスは自分の正体が割れていないと確信していた。そんなことはあり得ない。連中が自分が何者かを看破できるはずがない、きっと。メイソン神父は壇上を歩き回り、演壇の後ろに落ち着いた。メイソン神父はルーカスをまっすぐに凝視しながら話を始めた。

「そう、その人物は我らの内なる聖地に潜入したと思い込んでいるかもしれません。しかし、ここにいるのはソー・セイティス様が意思の働き。その人物は我々の元に送り込まれたのは、彼の機械の燃料となるためだけではなく、サンプルでもあります。我々が無為に浪費される力ではないことを示すための! ソー・セイティス様に力があることを示すための! 我々が人類の未来であることを示すための!」

ルーカスはハッと息を飲み、すぐに最寄りの出口を探すべく辺りを見回した。ルーカスとドアの間には30名の人がいた。数秒後にドアに向かって走れば、チャンスがあるかもしれない……。

ルーカスはアリサの方を見るために立ち上がったが、アリサも同じく椅子から立っていた。アリサはルーカスの方に移動し、手の中にあるかなりの大きさの拳銃を振りかざした。咄嗟の考えで、ルーカスはアリサに飛び掛かり、アリサが自分に銃口を向ける間を与えずに拳銃に手を伸ばした。アリサは驚いて叫び声を上げ、2人は床の上に倒れ、銃を奪い合った。アリサは拳銃を掴み、転がって離れようとしたが、ルーカスはアリサの腕を掴み、どうにか銃を奪い取った。アリサは怒鳴った。

「何やってんだあんた! 何もかもぶち壊しだ!」

「近付くんじゃねぇぞ気違いども!」

ルーカスは立ち上がると、騒動を調べようと立ち上がった近くの信者たちに拳銃を向けた。ルーカスはゆっくりとドアの方へ戻っていき、聴衆はルーカスに道を開けた。アリサは跳び上がり、ドアに向かって逃げ出そうとした。ルーカスはアリサの方に拳銃を向けた。アリサは立ち止まり、本能的に両手を上げた。

「おい、来るんじゃねぇ! 貴様ら全員そこでじっとしていろ!」

「この馬鹿!」

アリサは叫び、ルーカスの方へ移動した。

「私は連中の仲間じゃない! 私は……」

「おや! ジェームスさんがもう容疑者を逮捕してくれたようですな!」

メイソン神父の嬉しそうな声が部屋中をこだました。

「その女を私の方に連れてきなさい。あのラッド信者を連れてきなさい!」

ルーカスは混乱して銃を下ろし、後ずさりした。アリサは半狂乱になってルーカスの方に突進した。

「私を撃て! 撃て! 撃て! 頼む! 死んだ方がまし……」

アリサは叫んだが、ルーカスはさらに後ずさりし、状況を理解しようとした。

聴衆は2人の元に集まり、ルーカスの横を抜け、アリサの方に向かった。アリサは抵抗し、聴衆を蹴散らしたが、すぐに眼前の大勢の人々を前に圧倒された。アリサは金切声を上げ、取り囲む人々に猥語を浴びせながら、メイソン神父の元に引きずられていった。その間、ルーカスは「ラッダイト」を武装解除した功績を周囲の人から称賛され、背中を叩かれた。

「この機械主義者どもが!」

アリサは甲高い声で叫んだ。

「貴様らは偽りの存在に従っている。部品の動く箱なんぞに! この売女どもにラッドの呪いあれ! 貴様らの機械はただのなぁ……クソッタレの機械だ! 貴様らが勝ち取るのは無意味な死だけだ! このクソッタレの……」

4人の信者がアリサの四肢を抱え、聴衆の間を抜けてメイソン神父の元へ運んだ。他の信者たちは大混乱の模様を眺めていた。メイソン神父の元に辿り着くと、信者たちはアリサの腕と脚を縄で拘束し、口を布で塞いだ。アリサは噛み締めて、さらなる罵詈雑言を信者たちに浴びせようとしたが、メイソン神父の声がアリサの声を圧倒した。

「やはりだ! 我らの眼前にあるのはラッド信者! 淫猥なラッダイトが我らの活動と進歩を崩壊させに来た。この逆進者はソー・セイティス様にも敵がいないわけではないことを思い出させるためにいる。彼の機械の目的を妨げようとする者がいるとな。ラッド! ソー・セイティス様のはらからと、劣等たるその二人よ! この悪魔、このけだもの、この負の権勢……奴は彼の地獄の機械と直接相対するのは気が進まぬ。故に、奴は自分のために働く下僕を送り込んだ。ただ、下僕どももラッドが辿るだろうものと同じ運命に遭うのだ! 下僕どもは彼の機械のスイッチを切るという無意味な行いのために自身の命を捨てるのだ! 我らはそんなことは許さぬ! 我らは歯車を回し続ける! 我らはソー・セイティス様を満足させ続けるのだ!」

他の産業進化主義者たちは歓声を上げ、機械を動かすことを求めた。アリサが拘束を解こうともがく中、壇上の信者たちはアリサを持ち上げて、投入口の方へ運んだ。ルーカスは衝撃を受けて硬直していた。何が起きているのか把握しようとしていた。この事態はルーカスのせいだったのだろうか。もし俺があのようなことをしなければ……、いや、彼にできたことなど無かった。そのとき、ルーカスは武器を持っていたことを思い出し、ステージの方へ走った。メイソン神父の方に拳銃を向けて、アリサを開放するように信者たちに叫んだ。信者たちはルーカスを気に留めず、アリサを投入口に置いた。アリサは逃げようともがいていた。アリサはルーカスの方を見て、恐怖で目を見開いた。アリサは何かを言おうとしたが、言葉を発することはできなかった。メイソン神父はクランクの方に移動したが、ルーカスは銃口を向け続けた。

メイソン神父は立ち止まり、ルーカスにニヤリと笑みを浮かべてみせた。

「ジェームスさん、ゴホン、すまない、ルーカス君、それを下ろしてくれたまえ。おっと……そんなに驚くな! 彼の機械は様々なことを教えてくれる。君が誰か知っているよ。君がここで何をするのか知っている。ただ、もっと重要なことがある。私が君が次に何をするか知っている。君はこの件に関与していない。君はソー・セイティス様とラッドとの戦争なぞ関知していない。我々のグループについても知らなければ、我々の敵もな。君は『カルト集団』が……正確ではない言い方だが……『生贄』を捧げようとしていると思っている。また正確ではない言い方をするが……若い女を機械の悪魔か何かに捧げようとか、そんなことをな。君の役割は第三者、つまりは警察、英雄だ。君は女を救い、我々を獄中にぶち込みたいと願っている。君はこの上なく高潔だ。だが、君は知らない。ソー・セイティス様がどのように機能するかをね。これを見たまえ」

メイソン神父は顔を覆う灰色の斑点に指さした。

「これは骨折りの証であり、摩耗の証でもある。ソー・セイティス様が私の肉体をその力を行使する器として使うことを示す。言うなれば、憑依の証だ」

「なぜそんなことを俺に話す。さっさとアリサを機械から離せ。さもないと……」

「なぜ? なぜか、君の手を見たまえ! 前に握手したのは非常に有益だったな。協定の証のようなものだ!」

ルーカスは銃口をメイソン神父に向け続けながら、片手を自分の顔に近づけた。メイソン神父の顔を覆うものと同じ病気のような斑点が、今やルーカスの手や腕をも覆っていた。ルーカスは銃を下ろし、もう一方の腕も調べた。同じように斑点に覆われていた。ルーカスはどうしようもなくメイソン神父を見つめた。

「お前……き……気分が」

実際、ルーカスは吐き気を催させる存在が体内に根付いたことを感じた。ルーカスはよろめき、倒れそうになったが、機械に対して身構えた。アリサは何かをルーカスに向けて叫んだが、突然に金属が擦れ歯車が回り、聞こえなかった。ルーカスの頭蓋骨の内側で、蒸気がシューッと音を立て、コンベアがガタガタと鳴った。ルーカスは自分の状況を把握しようとしてた。ルーカスは手を伸ばし、自分を引き上げようとした。手は機械の横のクランクの方へ伸びた。ルーカスの視界がぼやけ、実在のものか定かはない煙が視界を妨げた。

「クランクを回せ、ルーカス君。機械を動かすのだ」

メイソン神父の声がルーカスに聞こえた唯一のものだった。メイソン神父の声にはあまりにも威厳があり、あまりにも断固としていて、あまりにも冷酷だったから、ルーカスはクランクを回した。クランクを回さねばならなかった。機械を動かさねばならなかった。ソー・セイティス様に燃料を注がねばならなかった。選択肢はなかった。

ルーカスはクランクを回し始めた。機械が轟音を立てて動き出し、歯車が回転し、歯車同士が擦れ合ってギシギシと音を立てた。蒸気が外へ出て、ピストンが上下し、コンベアのベルトが回り始めた。機械の内側のどこかからくぐもった叫び声が聞こえたが、ルーカスは黙殺した。クランクを回し続けることが必要だった。少し経つと、機械は違う音を出し始めた。金属同士を強く叩きつける音や擦り付け合う音の代わりに、金属をこれまでよりも一層柔らかいものに叩きつけ、容易く押しつぶす音が聞こえた。何かが歯車の間に囚われており、歯車は回転し続けようと頑張っていた。蒸気はもはやシューッという音を立てていなかった。パイプからは新たに液体がただポタポタと零れ出て、装置の下に溜まっていた。これまでよりも一層不快な臭気が倉庫に立ち込めた。肉、石炭、アリサから絞り出された何らかの体液がルーカスの鼻腔に浸透した。ルーカスは吐き気を堪えつつ、クランクを回すことに集中した。

苦しみの絶叫が徐々に消えていくにつれて、建物全体の温度が上がっていった。クランクはだんだんと回しにくくなっていった。ルーカスが機械の中の何かと奮闘しているかのようだった。ルーカスは力を込めてクランクを回し続け、暑い空気が吹き付けるのを感じた。汗が顔の上を流れ落ちた。機械の中を刃が回転し、ドリルが骨と肉に穴を空けた。ルーカスはアリサがすぐに絶命していることを願っていた。そうでなければ、機械が文字通りに身を裂く苦しみを味わうことになる。しかし、ルーカスはクランクを回す手を止めなかった。とにかくクランクを最後まで回さないといけないと知っていた。

ゴーンという鐘の音が鳴り、ピーという音が鳴り響いた。クランクは動こうとせず、ルーカスはクランクを手放し、床の上に崩れ落ちて頭を抱えた。背景で遠くから歓声が聞こえたが、頭の中の痛みに集中した。クランクはもう回していないのに、機械の音が残り続け、精神の中で音は大きくなっていった。血管の中を蒸気が流れるのが感じられた。床の上を手探りして、歯車の歯が頭蓋骨の中で押し込まれると、腕の滑車が回転した。肉体が石炭や燃料を消費すると、胸の中で炎が唸った。ルーカスは止めようとしたが……ああ、止めなくては……ああ、どうして止まらない……俺は機械ではなく人間だ、人間だ、人間だ、人間だ……。

「止めたいのかい、ルーカス君」

メイソン神父はルーカスの思考を読んだかのようだった。

ルーカスはその言葉を声に出して言っていたことに気付いていなかった。ルーカスは小声でモゴモゴと何かを呟いた。

「止めてくれ」

しかし、その声は機械の音が響く中で聞こえたかはっきりしなかった。

「彼の機械に入りなさい、ルーカス君」

メイソン神父はルーカスを優しく導いた。その通り、俺が行かねばならない場所だ。より大きな機械の中へ。俺も同じく機械である……はず。自分の部品をより大きな機械に与えるのは意味が通る。とにかく目標を完遂する必要がある。燃料を、燃料を、燃料を! 機械は燃料を求めている! 俺が燃料だ! そのはずだ。ルーカスは既に自分の中にあるあの機械の存在を感じていた。腕にある灰色の斑点は印だ。機械としての刻印。俺には欠陥がある。改良が必要だ。時代遅れの旧式ではいたくない。ルーカスは投入口に入って待った。何も起こらなかった。クランクを回さなければ! しかし、俺にはできない。人間が必要だ。俺はもはや人間ではない。

「心配するな、ルーカス君。もうすぐにソー・セイティス様と一緒になるよ」

それは最高だ。ソー・セイティス様は俺を理解し、俺を庇護し、俺が必要なものを賄ってくれるだろう。結局のところ、俺も機械なのだ。お互いにとって完璧だ。

「感銘を受けたよ、ルーカス君」

メイソン神父がそう言い、クランクの横に立った。

「ほとんどの人は憑依されると発狂する。でも、君はそうじゃなかった。君の意志はかなり強い。そして、君はソー・セイティス様とともにある場所がある。君は知らないことだが、この機械はソー・セイティス様ではない。これは搬入口だ。ソー・セイティス様は君の想像を超える壮麗な方だ。ソー・セイティス様万歳! 彼の地獄の機械よ!」

メイソン神父の言葉が部屋の中の他の人々により繰り返された。しかし、ルーカスはそうしなかった。ルーカスはソー・セイティスの抱擁に備えた。メイソン神父がクランクを回すと、ルーカスは機械の下の方へ滑り落ち、ソー・セイティスの真の全貌を一目見た。

ソー・セイティスという機械は地下を遥かにわたって広がっていた。縁は動く部品や機械で埋め尽くされていた。それには肉の小片がくっついており、知覚を有するように見えた。それは歯車の間で息をしていた。それは歯車の間からルーカスを見た。歯車の間からルーカスに話しかけた。しかし、ルーカスはより深く理解していた。それは機械に他ならない。それには生命は無い。ルーカスは自分が重要であると分かった。自分の力でこの機械を動かし続けられる。その機械の目的を達成させられる。その目的が何であっても。ルーカスは数時間かけてその装置全体の中で処理された。そうなる前に、ルーカスはメイソン神父の言葉に同意した。それは自分の想像を超える壮麗なものだ、と。

2023年5月4日木曜日

Creepypasta私家訳『あの忌々しいドアを閉めろ』(原題“Shut That Damned Door”)

錆びたドアの写真

"Battleground door" by Infrogmation of New Orleans is licensed under CC BY 2.0.

作品紹介

Shut That Damned Doorを訳しました。Creepypasta Wikiでは“Spotlighted Pastas”に指定されています。 開きかけの扉、襖の隙間、障子戸の影は怖いという話です。

“Damned Door”をどう訳すべきか。「忌々しいドア」、「クソッタレのドア」、「ドアのあん畜生」……。

作品情報
原作
Shut That Damned Door (Creepypasta Wiki、oldid=1319176)
原著者
WriterJosh
翻訳
閉途 (Tojito)
ライセンス
CC BY-SA 4.0

あの忌々しいドアを閉めろ

俺が14歳のとき、両親が車の事故で死んだ。

同情とかはするなよ。あの件とは数年前に折り合いがついている。両親との生活は素晴らしいものだったとは決して言えない。それでも、両親が居なくて寂しく思う。両親が一つ教えてくれたことがあったとすれば、自己憐憫に耽るな、ということだ。

ただ、両親が死んだせいで、ルイーズおばさんの元に行く羽目になってしまった。

誰にでもあんな家族が1人くらいはいるはずだ。少し変なところがあって、少し他の家族から孤立しているような人が。ルイーズおばさんが俺たちにとってはそんな家族だった。生きている親戚の中で一番近くに住んでいる人でもあった。親父の家族は大陸の反対側に住んでいた。お袋の両親は亡くなっており、子供はお袋だけだった。ルイーズおばさんはお袋の母親の姉妹で、実際は大おばにあたる人だった。俺と両親が住んでいたところからほんの1時間の所に住んでいた。

両親が生きていた頃、俺と両親は滅多にルイーズおばさんの元を訪ねなかった。本当に正直に言えば、ルイーズおばさんは俺を引き取るのを断るのではないかと半ば予想していた。児童福祉局がルイーズおばさんに連絡をとって俺を引き取るか相談したと聞いてすぐ、孤児院に引き取られるか、アメリカを横断することになると完全に覚悟していた。

しかし、ルイーズおばさんは了承した。進んで引き受けたのか、喜んで承諾したのかは分からない。ルイーズおばさんが俺の引き取りを了承したときの電話のやり取りに俺は関与しなかったためだ。しかし、俺が来てから最初の3日間、ルイーズおばさんが親切にしてくれたから、俺は驚いてしまった。

はっきりさせておきたい。ルイーズおばさんは気難しく、風変わりで、偏屈で、気が利かず、他にも良いとは言えない形容詞がいくつか並ぶ人だったけれど、どうしようもないクソババアではなかった。どちらかと言えばぶっきらぼうで、むしろ苛々させるような話し方をする人だったが、冷酷な人ではなかった。生まれてから14年間、ルイーズおばさんの為人を知る機会は全く無かったが、ルイーズおばさんはほぼ人付き合いをしない人で、特に人を好いたりしない人だとは知っていた。だから、俺は自然に、ルイーズおばさんは社会から逸脱した不愛想な婆さんなのだろうと推測していた。

実のところ、俺が越してきて最初に一番驚いたのは、何もかもが普通に見えることだった。少なくとも最初のうちは。ルイーズおばさんは料理をしたり、掃除をしたり、テレビを見たり、隣人と電話で話したりなど、他の誰でもしそうなことをしていた。ルイーズおばさんがすぐ俺に言ってきたことは、俺が予期していたようなものとはほとんど違った。少なくとも、俺の両親が言わなかったようなことは言わなかった。夜更かしするなとか、帰宅が遅くなるときは連絡しろとか、テレビを見る前に宿題を終わらせろとか、自分のものは片づけろというようなことしか言わなかった。

ただ、1つ変な決まりがあった。その決まりはあまりに奇妙だったから、他の決まりから浮いて見えた。最初、俺は気にしないようにしていた。老人は時折、風変りになるものだ。最初は、それ以上のものではないと思っていた。しかし、それは間違いだった。

ルイーズおばさんは俺が部屋を出入りすると必ず、すぐに背後のドアを閉めるように言った。数秒だけ部屋に用事があるときでもお構いなしだった。部屋に入ると、すぐにドアを閉めるように要求した。部屋を出るときも同じだった。

最初の1週間ほど、俺はこの決まりをよく忘れた。ルイーズおばさんは俺にこの決まりのことを思い出させるのを決して欠かさなかった。俺が忘れるといつも、「あの忌々しいドアを閉めんか!」と叫んだものだった。ルイーズおばさんが家のどこにいようが全く関係なかったようで、俺がドアを開けてすぐに閉めずにいるといつもバレた。

ルイーズおばさんの家は古く、俺はルイーズおばさんが最初の持主ではなかっただろうと分かった。ルイーズおばさんはお袋が子供の頃からそこに住んでいた。この家がどれほど古いのかは分からなかった。そのデザインやレイアウトを見るに、築100年は優に超えているかもしれなかった。家は2階建てで、地下室が2階あった。地下2階の存在を知ったときは少し驚いた。自分の服の山を洗濯中に、ユーティリティルームの反対側の壁に閉じたドアが自然に存在することに気付いた。地下室は未完成で、ほぼ土の床であり、そこら中で沢山のものが積み上げられたり棚に収められたりしていた。何かを踏んずけたり、積み上がったものを倒したりする恐れがなく歩けるところはこの洗濯室だけだった。洗濯室は地下で唯一のタイル張りの部屋だった。

地下室で見つけたドアには横切るように板が張り付けられており、簡単に動かせた。まるでルイーズおばさんが、必要であれば越えられないこともない境界線を必要としていたかのようだった。2度目に見かけたときは好奇心に負け、ドアから板をずらして外し、ドアを開けようとした。しかし、鍵が掛かっていた。

すぐにはこれが奇妙なことだとは思わなかった。それでも、俺はあの部屋が外に通じるものを除けばこの家で唯一、ルイーズおばさんが鍵を掛けっぱなしにしている部屋だと気づいたときには不思議に思った。

ある日、ルイーズおばさんにこのドアについて質問した。ルイーズおばさんは料理の最中だった。

「地下室のドア?」

ルイーズおばさんは答えた。

「あれは地下2階だ。それより下はないよ。普段はジャムを置いているんだ。涼しくて保存に向いているからね」

「分かったよ」

俺は答えた。これでは鍵を掛けっぱなしにしている説明にはなっていなかった。

「それで、いつか俺がその地下2階を見てみたいと思ったときは……」

「いい加減にしな。どうしてそんな所を見たいんだね」

その返答を聞いて気付いたが、ルイーズおばさんの顔色が変わっていた。ルイーズおばさんは普段はだいたい同じ表情をしていた。誰かが洗い立てのカーペットに泥の足跡をつけたかのようなしかめ面だ。しかも、表情が示すほどには不機嫌ではなかった。ただ、よく作っていた表情はそれだったようだ。

しかし、俺がドアの先を見たいと言ったとき、ルイーズおばさんは返答する前に1秒間ほど、眉毛が吊り上がり、口を震えさせていた。あまりに微妙な変化だから、他の人であれば気付かなかっただろう。ただ、そのときには、俺はルイーズおばさんのことを十分理解していた。あれは恐怖の叫びと同じだった。

それで、俺はあのドアの先を見なければならないと思った。

俺はいつだって好奇心旺盛な方だった。興味を引き立てるものから離れ続けることは絶対にできなかった。俺の中の良識が近づかない方が良いと理解していたとしてもだ。それ以来、地下2階にあるものを見る以上の望みはなかった。

ただ、あの鍵をどう対処すればいいか。それが目下の課題だった。ルイーズおばさんはすべての鍵を一つのキーホルダーに纏めていた。鍵はそれほど多くなかったが、地下二階へのドアがどこかにあるとすれば、そこが答えだった。

俺はルイーズおばさんから鍵を奪い取る方法を見つけなければならなかった。

問題はそれほど単純ではないと分かった。例えば、物音を聞かれずに家の中を移動することはできなかった。ドアを全く開閉することなく、自分の寝室からルイーズおばさんの寝室に忍び込んで鍵を掠め取ることは不可能だった。自分の寝室のドア、廊下の向こう側のドア、そして、ルイーズおばさんの寝室のドアを開閉しなければならない。信じてほしいが、ただ全てのドアを開けっぱなしにしたとしても、ルイーズおばさんはどういうわけかそれに気付くのだ。一度、夜にトイレに行って、廊下のドアを閉じ忘れたことがあった。ちょうどトイレに辿り着いたとき、ルイーズおばさんの叫び声が聞こえた。ルイーズおばさんは眠ってさえいたというのに。

「あの忌々しいドアを閉めんか!」

俺は急いで戻り、廊下のドアを閉めたのだが、今度はトイレのドアを閉め忘れた。すると、再び叫び声が聞こえた。

「あの忌々しいドアを閉めんか!」

さらに言うと、ルイーズおばさんの部屋には軋むドアという落とし穴がある。そのため、ルイーズおばさんがそのドアを開けると、ギィィィィィという音がする。ルイーズおばさんに気付かれることなく開けられるドアは無かった。

だから、地下2階のドアのことはしばらくの間忘れていた。好奇心を満足させるのは後回しにして、しばらくは無口な老女と上手くやっていこうと努力した。生活が少し楽になってきた。全てのドアを常に閉めっぱなしにすることを忘れなければ、俺とルイーズおばさんは上手くやっていけた。ルイーズおばさんは何事につけ俺を苛つかせるようなことはしなかったし、俺もルイーズおばさんを苛つかせることはなかった。そこはかなり静かな家だったが、俺が住み慣れた家でもあった。ドアを通じて入られるどの場所も常にドアが閉まったままであることをもはや奇妙とさえ思わなくなった。ドアが開けっぱなしになっていると奇妙に思うようにすらなっていた。

問題のその日、ルイーズおばさんは『ザ・プライス・イズ・ライト』([訳註] アメリカのクイズ番組。“Come on down!”<さぁこちらへどうぞ!>という掛け声でお馴染み) を見ながら眠ってしまった。その日は夏で、かなり暑かった。ルイーズおばさんはドアを開けることと比べると、窓を開けることはわずかに関心が薄かった。それでも、ルイーズおばさんは一度に1箇所しか窓を開けようとせず、この日も1箇所だけ開けていた。ルイーズおばさんの主要な奇癖のおかげで、どの部屋にも空気の流れが無いこの家は箱に閉じ込められたかのようで、窓を1箇所開けただけでは十分に冷却されなかった。そんなわけで、自然とルイーズおばさんは眠りに落ちた。こうして、俺にチャンスが訪れた。

ルイーズおばさんのハンドバッグがその足元に置いてあった。俺はルイーズおばさんのすぐ隣の椅子に座り、『アベンジャーズ』という漫画を読み、テレビから繰り返し流れる「さぁ、こちらへどうぞぉぉぉぉぉ!」という声を無視しようとしていた。俺はルイーズおばさんの方をそっと見た。すると、ルイーズおばさんはぐっすりと居眠りしていた。ルイーズおばさんの聴力は起きているときでさえそれほどではなかったが、耳が聞こえないというわけでもない。ただ、居眠りしていることを考えると、ハンドバッグから物をくすねるときの小さな物音はさほど聞こえないだろう。

鍵はほぼすぐに見つかり、俺は吹抜けに向かった。ドアを開けたときにルイーズおばさんが目覚めたとしても、洗濯物の仕事をしていたと言い張るつもりだった。しかし、ルイーズおばさんは俺がドアを閉め忘れたとしても目を覚ます様子はなく、今となっては俺はそんなヘマは絶対にしなかった。

階段を下り、あの入れなかった場所にまだいるわけでもなかったが、どういうわけかつま先立ちで歩いた。ルイーズおばさんは決して明白に俺が今やっていることを禁止したわけではなかったが、馬鹿げたことに罪悪感を覚えた。

地下室のドアはもちろん閉まっていたが、いつも通り鍵はかかっていなかった。身を屈めて入り、ドアを閉じて、数分間待った。ルイーズおばさんが目を覚ますなどして椅子の骨組みがずれる音がしないか、どうして地下室にいるのか問い詰めていそうな声がしないか耳を澄ました。

こっそりと洗濯室に忍び込み、ドアを開けてすぐに閉じ、内側に滑り込んだ。照明の紐を手探りで探し、引っ張った。弱弱しく不気味な光が部屋の中を明滅した。これまでこの部屋の明かりをここまで不気味に思ったことはなかったが、そのときはそう思った。これまでの行動に何か違和感を覚えた。

しかし、好奇心が警戒心を打ち負かした。俺はドアの方に忍び込み、板を取り外した。ルイーズおばさんは俺が最後に板を外した後に、板を元の場所に戻したようだ。ルイーズおばさんはどうしてこんなことをしたのか、脳裏に疑問が一瞬過ぎったが、俺はその疑問を無視してキーホルダーを取り出した。

3番目の鍵がそのドアの鍵だった。錠が外れる大きな音が聞こえた。俺は凍り付いた。胸の中を心臓が鼓動を打ち、階上から叫び声が聞こえないか耳を澄ました。何も聞こえなかった。

ドアは幽霊のように静かに開いた。その先には階段を照らすような明かりは無かった。階段では照明の紐さえも見えなかった。俺の脳が悲鳴を上げ、肉体に回れ右してこのちょっとした冒険を忘れるように命じた。しかし、俺はそんなことに気にも留めず、階段を忍び足で降り、手探りで壁を伝った。

進んでみると、小さな光があることが分かった。光は天井の通気口から漏れ出ていた。大した光ではなかったが、照明の紐があるのが見えた。階段の降り口から数十センチ先だ。おかしな場所にあるものだ。こういうものは踊り場にあるものだろう。それでも、俺はかなりこぢんまりとして見える廊下を歩き、紐を引いた。もしかすると、そのちらつく明かりは洗濯室からの明かりよりも弱弱しかったのかもしれない。かろうじて明かりがついていると分かるような有様だった。

見回してみると、本当にルイーズおばさんが言っていたようにジャムが保管されていた。謎に平凡な回答が突きつけられていささか失望した。一時は、秘密の地下2階は本当に秘密の場所のように見えたのだ。

ただ……固い土の壁や地下の冷涼な空気の中にあるはずのない、やや暖かい微風が感じられた。まだ違和感が強く残っていた。俺は瓶が並ぶ棚の列の終わりに出入口があることに気付いた。出入口にはドアが無かった。

俺は忍び足で進み、腕を前にして慎重に歩を進めた。ドアの先の部屋は暗く、黴臭い臭いがした。肌を撫でる生暖かい空気の出本は感じられなかった。しかし、その部屋へ近づくにつれて、空気が暖かくなっていることに気付いた。

隧道の入り口に着いた頃には (どういうわけか、このときにはこの場所は隧道であると思い始めていた)、空気はただ暖かいだけではなかった。湿ってもいたのだ。悪臭もあった。その臭いは黴臭いものから、もっと質の悪いものになっていった。今までよりも違和感が強まった。俺はここから出ていかないとならない。どうして近づいてしまったのだろう。

そこには大した光は無かったが、部屋の反対側に別のドアの輪郭が見えた。そのドアは半開きだった。ルイーズおばさんの家に半開きのドアがあるというのは、他の人の家に粉々に割れた窓があるようなものだ。異常だ。あり得ない。こうなると……もう俺は正確にはルイーズおばさんの家にはいない、ということか。この隧道はこの家のために掘られたわけではない。俺はそのことを魂で理解した。その隧道は以前からそこにあった。かなり昔からあった。この場所は短慮な建築業者がルイーズおばさんの家に接続しただけだった。連中は何を掘り出してしまったのか分かっていなかった。埋めたままにしておくべきものだったのだ。

すぐに気付いたが、その先の部屋、まさに足を踏み入れようとしていたその部屋が動いていた。明かりは暗すぎて、何が起きているのか見えなかった。それでも、その部屋の先で何か動きがあった。絶え間なく、ゆっくりと、緩慢な動きだ。壁沿い全てに、床の上の全てに動きがあった。四隅からグチャグチャという微かな音が聞こえた。何かが這い回り、そのどろどろとした肉を拡大していた。

そして、それは俺を見ていた。俺に床を横切り、向こう側のドアを閉じさせようとしていた。俺にドアを通ってくるかもしれない何かを永遠に締め出させるように仕向けていた。流体を啜る音が聞こえた。何か形のない、ゼラチン状の存在が闇の中を伸び縮みしていた。

その瞬間、俺は理解できたような感覚に陥った。このドアの前に立った人間は俺が最初ではない。閉めることのできないこのドア。あのもう一つのドアを見た最初の人間ではなく、そうするつもりでもなかったその人は、向こう側でドアを開けたままに放置した。そして、誰かが勇気を出して境界を横切り、そのドアを閉じるまでは、常に開けっぱなしになることを知っていた。

ルイーズおばさんは勇気が無く、だから逃げ出した。そして、家の中の全てのドアを常に閉めたままにした。家の中のドアをいつ何時も閉めたままにしておけば、あの忌々しいドアの向こうから何かがついにやって来たときにその時が来たと分かるかもしれないと、ありもしない望みを抱えて。

俺も勇気が無かった。踵を返し、逃げ出して、決して振り返らなかった。16歳のとき、俺はルイーズおばさんの家を出て、社会復帰施設に移った。18歳になると仕事を変え、別の場所に移った。ルイーズおばさんの家には絶対に戻らなかったし、電話もしなかった。ルイーズおばさんのことを考えないようにさえ努めた。

ただ、上手くいかなかった。例の出入口の前に立ったあの日のことをいまだに思い出す。あのグチャグチャと音を立てて蠢く何かが、暗闇の中を待っていると脳裏に浮かぶ。そして、ルイーズおばさんがあの部屋を横切る力を身につけて、あの忌々しいドアを閉めてくれないだろうかと思ってしまうのだ。

2023年5月2日火曜日

禍話リライト「そんなのは嫌な話」

本稿はFEAR飯のかぁなっき様が「禍話」という企画で語った怪談を文章化したものです。一部、翻案されている箇所があります。 本稿の扱いは「禍話」の二次創作の規程に準拠します。

なお、「CD」と書いた部分は、語りの際には明言されていなかったため、実際は違うかもしれません。MDやカセットテープなどの可能性もあります。

作品情報
出自
震!禍話 二十二夜(序盤フリートーク) (禍話 @magabanasi放送)
語り手
かぁなっき様 (FEAR飯)

そんなのは嫌な話

Aさんが先輩のBさんたちとドライブを楽しんでいたときの話。

そのときは、Bさんの運転で峠道を走っていた。上り下りが激しかったせいか、後部座席に乗っていた友人たちは車酔いで気分が悪くなっていた。助手席にいたAさんは無事だった。Bさんは気分転換に曲でもかけようかと言って、アニソンを集めたCDを流し始めた。アニソンと言っても、大きなお友達が聞くようなものではなく、子供向けのものだ。

「ガキの頃に聞いていたヤツだけど、こういうのの方が逆に落ち着くかもしれないぞ」

車の中を、ドラえもんやポケモンなどの懐かしい曲が流れる。すると、Bさんがポツリポツリと話を始めた。

「実はさ、この辺はあまり良い思い出が無いんだよね……」

聞いてみると、Bさんのいとこがこの近辺で行方不明になったらしい。Bさんのいとこは、夜中に急に目を覚まし、のっぴきならない用事ができたと言って外に飛び出した。いとこが乗っていた車がこの辺りで発見されたが、本人は失踪したままなのだという。山狩りもしたが、痕跡すら発見されなかったそうだ。Aさんは和やかな歌に反して、突然に嫌な話を始めたものだと思っていた。

「『のっぴきならない用事』って何だったんでしょうね」

とAさんが聞くと、Bさんは言った。

「あいつ、彼女がいたらしいんだよね。ただ、家族や知り合いもそいつの彼女が誰か知らないんだ。それがちょっと気持ち悪くてさ」

「もしかして、その彼女って人の仕業だったんでしょうか」

「変な話して悪かったな。誰かに聞いてもらいたかったんだ。ごめんな」

車の中を「アンパンマンのマーチ」が流れていた。「そうだ うれしいんだ」で始まるあの曲である。Aさんは何気なく、

「いつか真相が分かる日が来るといいですね」

と呟いた。ちょうどそのとき、車内では「アンパンマンのマーチ」の

「わからないまま おわる」

の部分が流れていた。何故か、曲はそこから先に進まず、そのフレーズを繰り返した。

わからないまま おわる

わからないまま おわる

わからないまま おわる

わからないまま おわる

……

Bさんは急ブレーキをかけた。車内が騒然とする中、Bさんは曲を止め、CDを窓から外に投げ捨てた。

Bさんのいとこは未だに行方不明のままだという。


アンパンマンのマーチ ― 作詞:やなせたかし、作曲:三木たかし

禍話リライト「立て替え女」

本稿はFEAR飯のかぁなっき様が「禍話」という企画で語った怪談を文章化したものです。一部、翻案されている箇所があります。 本稿の扱いは「禍話」の二次創作の規程に準拠します。

作品情報
出自
震!禍話 十七夜 (禍話 @magabanasi放送)
語り手
かぁなっき様 (FEAR飯)

立て替え女

Aさんが都会に引っ越したときの話。

住んでいたアパートの集合ポストが荒らされることがあった。昔似たような経験があったことから、Aさんはカラスの仕業だろうと考えた。カラスは知能が高い。集合ポストには鍵がかかっていたが、作り自体は簡素なものだった。隙間から枝を突っ込めば、中のチラシを取り出すことくらい造作もないだろう。

公共料金の封筒もチラシと一緒に取り出されて、辺りに散乱していた。中身は開けられて無くなっていた。封筒を開けられるほど器用なカラスがいるのだろうか、そもそも中身を持ち去ってどうするつもりなのだろうか、とAさんは疑問に思ったが、それほど深くは気にしていなかった。Aさんは呑気な性格で、カラスの悪戯のせいで電気代などが払えずにいたが、問題になったときに対処すればいいと放置していた。

しかし、数か月経過しても、公共料金の督促は来なかった。電気やガス、水道が止まることもなく、問題なく使えた。電力会社に連絡をとったが、料金は支払い済みであるという返答が返ってきた。ガスや水道も同じだった。カラスが立て替えてくれるわけもない。さすがのAさんも不安になってきた。そこで、Aさんは友人に頼んで、数名と一緒に集合ポストを見張ることにしたのである。

案の定、犯人はカラスではなかった。見ず知らずの若い女だった。金属の棒を突っ込んで、集合ポストの中身を無理矢理取り出していたのである。

仲間と一緒に取り囲んで問い詰めたところ、女は白状した。曰く、Aさんの姿を近所で見かけ、その身なりから生活に困っているのだろうと思い、公共料金を代わりに支払っていたのだという。一見すると思いやりがあるようにも見えるが、わざわざ赤の他人の住所を突き止めて、その人宛ての郵便物を漁るのは明らかに常軌を逸している。Aさんたちは女を警察に突き出した。一応は盗難に当たるため、警察も取り合ってくれた。

警察が調べたところ、女は常習犯であることが判明した。貧しそうな人の郵便物を漁り、公共料金を勝手に支払うという行為を、様々な地域で10年にわたって行っていたのである。ここまでであれば、狂ってはいるが優しくもある女の話で終わるが、それだけでは済まなかった。

女が公共料金を支払っていた人の何人かが行方不明になっていたのである。

どうやら、女は何年か料金を支払うと、その人の家に向かい、自分が代わりに支払っていたと申し出るらしい。ある行方不明者の隣人が、その人物と女が口論になっているのを見かけたことがあった。行方不明になったのはその直後のことだったという。警察は行方不明者についても調べたが、彼らの居所は分からないままだったそうだ。

Aさんは警察関係者に捜査状況を尋ねて、上記のことを教えてもらった。警察関係者によると、その女はこのようなことを言っていたという。

「元は取らなきゃいけないからね」

結局、女の失踪事件への関与は立証されなかった。女は精神科で治療を受けているという。