最近、『メイコの遊び場』という漫画を購入した。帯によれば物騒な描写が売りらしい。最初に書店で見かけたときは、表紙から独特の空気を感じ取り、そこに魅力を覚えた。しかし、スプラッタな要素しか売りがない作品だったら金の無駄ではないかと躊躇して、一度は購入を見送った。漫画誌の定期購読を懐事情から諦めている私からすれば、1冊1冊の購入が死活問題。面白そうだから大人買い、なんてことにはかなりの抵抗がある。それでも、2度3度見かけ、最終的には購入に踏み切った。後で調べてみると、作者の岡田索雲先生は一部でカルト的な人気を誇っているらしいと分かった。それを最初から知っていれば、胡散臭い帯のことは気にしないで購入していたかもしれないのだが……。
作品概要
本作の舞台は1973年の大阪。主人公は表紙にも載っている眼帯の少女・メイコ。子供でありながら、依頼に応じて邪魔な人物を消す仕事をしている。断片的にしか語られていないものの、様々な描写から、これまでまともに学校に通ったことがなく、同年代の友人がいなかったことが伺える。恵まれない生い立ちと稼業のためか、表情の変化が乏しく、感性が他者とは異なる部分もある。それでも、完全に人間から逸脱した怪物というわけではない。子供らしい無邪気さ、遊びを楽しむ心。そんな普通さも併せ持つ。
メイコの武器は眼帯に隠された左目にある。未読の方のために敢えて詳細は語らないが、これを使うことで標的を自分の心の中に引きずり込むことができる。彼女の精神世界の中では、メイコは神のように自由自在。その中で「殺された」人物は、現実の世界では精神を破壊されて廃人となる。年端もいかぬ少女でありながら、殺し屋紛いの稼業ができるのはこの左目のおかげである。
物語が本格的に始まるのは、そんなメイコに恐らく初めての友達ができた場面から。子供たちのリーダーのような立ち位置のアスマ少年が、寂しそうなメイコを見兼ねて遊びに誘ってくれたのである。じゃんけんすら知らないメイコのために、アスマはメイコに様々な遊びを伝授する。そして、夜になると、メイコはアスマから教わった遊びを、その無邪気な童心故に標的たちに対して試していく。悪趣味な欲望からではないが、死に対する感性が逸脱したメイコの遊びの末路は必ず血みどろなものとなる。
第1巻は基本的に、昼間にアスマから遊びを教わり、夜にその遊びで標的を弄ぶという流れの繰り返しである。第2巻以降どうなるかは分からないが、私はかなり計算して作られた筋書きであると思った。どうしてそう考えたかについてはこれから詳細に説明していく。
本作は単なるスプラッタ・コメディか
アスマから教わる遊戯は、今時の子供がやるとは思えない昭和の遊びである。作者の発想がどこを起点に広がっていったのかは分からないが、恐らくは「昭和の遊びで人を殺す漫画を描いたら面白いのではないか」というアイディアがこの作品の発端ではなかろうか。昭和の遊びは素朴な分、上手く描写すれば、血みどろさと滑稽さが両立した面白さを実現できる。ただ、この要素だけがこの作品の面白さではない。これだけならば単に血塗れなだけのキッチュな凡作で終わっていただろう。
例えば、私のような凡人に「昭和の遊びで人を殺す話」というアイディアが頭から浮かんできたら、こんな筋書きの作品を作っていた。「平成の某所、少女の姿をした快楽殺人鬼が夜な夜な現れ、通りがかっただけの哀れな犠牲者を珍妙な方法で殺していく。陰惨な殺戮の後には血みどろの現場が残される」。もし、これだけの作品だったら、スプラッタと滑稽さが売りなだけで埋没するのがオチだろう。しかし、この作品は違っていた。
本作でメイコの標的になるのはヤクザ者だけである。しかも、殺されるのはあくまでメイコの心の中だけで、現場に残るのは精神が崩壊した廃人だけである。現実世界には血の一滴も流れない。もし、一般人も標的になり、陰惨な殺され方をしたバラバラ死体が残る設定であれば、おおらかな昭和の時代とはいえ、さすがに大騒ぎになる。昼間にメイコと遊ぶ子供たちは現れなかっただろう。空き地で呑気に遊んだり、怪しげな余所者を遊び仲間に引き入れたりはしなかったのではなかろうか。家に閉じこもって、その中で暇つぶしに一人遊びするだけだったはずだ。
メイコは殺し屋であると同時に、無邪気で童心ある子供でもある。昼間は遊戯を楽しむ少女、夜は無情な殺戮者。この差が独特の面白さを醸し出している。単なる快楽殺人者として描写されていれば、このギャップを生み出すことはできなかったはずだ。純粋に友人たちとの遊びを楽しみ、それを求めるメイコの姿は、無表情で不気味な見た目とは裏腹に、どこか愛らしく見えてくる。子供たちとの間に生じる常識、感性のズレは、殺戮描写とはまた別の滑稽さを生み出している。そして、殺し屋として生きていかざるを得ない少女の哀しさも、読者の心の中に滲み出てくるかもしれない。単なるスプラッタ、滑稽さだけでない面白さ、奥深さを生み出しているのは、作者の設定構築の巧みさのおかげである。
また、標的が悪人しかいないという設定は別の効果も生じる。もし、無辜の一般人も殺戮の対象に選ばれる設定だったならば、この作品の読後感は全く別物になっていただろう。昭和の遊び、子供の飛躍する想像力によって殺されるという描写の奇妙さが際立っているのは、あくまで殺されるのがろくでなしだからである。普通の人まで殺されていれば、悪趣味を通り越して後味が悪いだけだっただろう。他にも後味の悪さを抑える工夫は随所に見られる。例えば、殺人の依頼者がどこか憎めない小悪党である点や、殺戮の描写は流血や骨格の崩壊を描くだけで、撒き散らされるであろう臓物まで描くほど仔細ではない点 (これは意図的かどうかは分からないが) などがある。
オマージュ、パロディ
ここまでで本作は単なる色物ではないと書いたが、それ以外にも触れておかなければならない点がある。ギャグとしての要素を意識しているのか、本作はどうやらパロディが多いようだ。
読書メーターのBo-he-mian氏のレビュー (2019年8月15日参照) によれば、本作の表紙や舞台はロマンポルノ『(秘)色情めす市場』を意識しており、メイコの名前の由来も女優の梶芽衣子、他にもメイコの友人たちや標的のヤクザ者の顔もパロディで満載であるという。 私は古い作品についての知識が皆無であるが、そんな私ですら露骨にパロディであることが分かった箇所がある。
メイコの友人の一人のヨシハルの顔は有名な『ねじ式』の主人公にそっくりである。そもそも名前が「ヨシハル」と露骨だ。本作55ページでは有名な腕を押さえるポーズをとっている。
第7話の標的は映画『男はつらいよ』の寅さんそっくりの格好をしている。この人物は拝借元とは異なりかなりの外道で、第1巻の中でも際立って陰惨な末路を迎える。
前述のBo-he-mian氏は博識で古い作品に通じていたために、却って本作の面白さが理解できなかったようだ。数多くのパロディのために気が散って、本作に没頭できなかったのではなかろうか。私は知識が皆無なおかげで、特に気にせずに読み込むことができた。ただ、オマージュ、パロディを理解していないという点で、本当の意味で本作の面白さを読み込んで理解しているとは言えないのだろう。恐らくは作者のサービス精神によるギャグ、または昭和という時代への敬意の現れであって、細かく理解せずとも作品は読めるのだろうが、何だか悔しい思いである。精進が必要だと思わずにはいられない。
第2巻以降も昼間の遊び、夜の殺戮という流れを描き続けるのかは分からない。私は財政事情から単行本派。連載を追っていない。ただ、第1巻の時点ではかなり面白かったと言いたいがためにこの記事を書いた。偉そうに雑多に書き連ねたことが第2巻以降で大外れであると判明してしまったら恥ずかしい。まあ、所詮は、読後の感情を並べたよくある感想ブログや、考察という名の妄想を並べたウェブ検索の邪魔になるアレと大して変わりやしないので……
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