2014年5月31日、アメリカ合衆国ウィスコンシン州ウォーキショーの森の中で、12歳の少女が同い年の少女2人に包丁で19回刺された。幸いなことに、被害者は負傷から立ち直り、秋には学校に復帰した。2人が親友を殺そうとした理由は意外なものだった。架空の存在である「スレンダーマン」(Slenderman) に捧げ物をするためだったのである。本稿ではアメリカで"Slenderman Stabbing" (スレンダーマン・スタビング) と呼称されるこの事件について解説する。
2019年10月下旬、事件の被害者が初めて重い口を開いた。詳細は「追記: 2019年10月下旬の続報」にて。
そもそもスレンダーマンとは?
「スレンダーマン」のことを全く知らないという読者のために説明するが、スレンダーマンとはフィクションの怪物である。異常なほどの高身長、痩せぎすの体躯、のっぺらぼうの顔、身にまとったスーツが特徴である。 起源は2009年6月に遡る。Something Awfulという海外のウェブフォーラムのCreate Paranormal Imagesというページで、超常現象を題材とした写真を「作る」試みがあった。 様々な画像が投稿されたが、その中でもVictor Surge (ヴィクター・サージ) ことEric Knudsenが制作した2枚の画像が好評になった。それがスレンダーマンが最初に登場した作品である。 それ以来、ファンたちは数多くの二次創作を制作していき、知名度を増していった。本邦でもホラーや創作を好む人々の間では有名で、「スレンダーマン」というキーワードでウェブ検索をすれば様々な作品を見つけることができるだろう。
スレンダーマンはいわゆる「クリーピーパスタ」(Creepypasta) の1つでもある。クリーピーパスタは元は「怖いコピペ」程度の意味であり、現在ではホラーを中心とした広範囲の創作ジャンルを意味するらしい。本邦で言うところの「洒落怖」(匿名掲示板「2ちゃんねる」のオカルト板の名物スレッドに由来する言葉) が近いかもしれないが、クリーピーパスタほどの勢いはない。スレンダーマンは本邦での「くねくね」や「八尺様」の立ち位置に近いと思われる。クリーピーパスタは海外が中心であり、日本語での資料は不十分である。私のおすすめはCandle Coveという作品である。スレッドを模した形式であり、多少英語が読めれば問題なく読める。簡潔にまとまった傑作である。
ここで注意すべきなのは、スレンダーマンは単なるフィクション上の存在であり、面白い創作物として創造されたコンテンツに過ぎないということである。本稿で説明するような悲劇を望んで作られたわけではない。スレンダーマンはクリーピーパスタというジャンルの中で極めて重要な存在であった。被害者へ手を差し伸べるため、そして、スレンダーマン、さらにはクリーピーパスタの存在を守るため、関係するインターネット・コミュニティのメンバーたちは、6月13日から24時間、YouTubeで被害者に向けての募金活動を目的とした生放送を配信した。
詳細は後述するが、実は加害者にはある特別な事情があったらしい。スレンダーマンは多くの人々から愛され恐れられる人気者だった。作品として非常に出来が良かった。質が良かったからこそ、このような悲劇に繋がってしまったのかもしれない。良いフィクションは良くも悪くも人間の精神や感情に働きかけるものである。今回のような事件は滅多に起こるものではない。とはいえ、人々が創作活動に勤しむ限り、ごく稀ではあっても、社会を揺るがすような大事件という「副作用」もまた生じてしまうのかもしれない。
事件の経緯
アニッサ・ウェイアー (Anissa Weier) はこの事件の主要人物の1人である。猫が鼠をいたぶって殺す映像、棒付きキャンディーの柄で人を殺す方法、「サイコパステスト」なるものなど、悪趣味な話題を好んでいた形跡がSNSに残っていたが、新たな友人に出会うまではその程度の凡庸な少女のままでいられたのかもしれない。その友人の名はモーガン・ゲイザー (Morgan Geyser) といい、ハリー・ポッターシリーズなどのファンタジーが好きな空想家だった。特にヴォルデモートのことがお気に入りだったらしく、"Voldie"というペットにでもつけるようなニックネームで呼んでいた。アニッサとは同じサンセット・アパートメンツ (Sunset Apartments) に住み、同じバスでホーニング・ミドル・スクール (Horning Middle School) へ通うという縁があった。2013年12月、アニッサはモーガンにCreepypasta Wikiを紹介した。そのウェブサイトではスレンダーマンも紹介されていた。アニッサはモーガンを「チャイルド」(Child) と呼んでいた。2人は仲良くスレンダーマン関係の創作を鑑賞していった。事件後にモーガンの寝室を捜索したところ、スレンダーマンを描いたと思しき落描きが50以上発見された。夢見がちな少女だった2人は、次第にスレンダーマンの存在を信じるようになった。モーガンはアニッサにスレンダーマンを幼い頃に見たことがあると語った。こうして急速にのめり込んでいき、12月下旬にはスレンダーマンに「捧げ物」をする計画をたて始めていたという。スレンダーマンはニコレット国立森林公園の中心にある邸宅に住んでおり、捧げ物をしなければ自分たちや家族を殺そうとすると信じた。
2人は贄として敢えてモーガンの親友を選んだ。ペイトン・ロートナー (Payton Leutner) は同じクラスにもう1人ペイトンという名前の人物がいたため、ベラ (Bella) と呼ばれていた。ベラとモーガンは4年生の頃からの親友だった。モーガンとアニッサはスレンダーマンの「代理人」(proxies) となり、スレンダーマンの実在を証明しつつ、彼の存在への奉仕を身をもって示すため、ベラを殺すことを決断した。
2人は「キャンプ旅行」(camping trip) という隠語を使いつつ、ときには学校へ向かうバスの中でも殺人の計画をたてた。スレンダーマンが暮らす (と2人が信じていた) ニコレットへのキャンプである。2人は5月30日のモーガンの誕生日にお泊まり会を開き、眠っているベラを殺害することにした。ベラの口をダクトテープで塞いで首を刺し、死体を寝具で隠してそのまま逃亡するという作戦だった。
そして5月30日金曜日、すなわちモーガンの12歳の誕生日、3人はローラースケートを楽しめる「スケートランド」(Skateland) という施設で遊んだ後、モーガンの家で夜を過ごした。計画では午前2時にベラを殺すつもりだった。しかし、計画は延期になった。モーガンがベラにもう1日猶予を与えたくなったためである。もしかしたら、単に怖気づいただけかもしれない。
翌日、2人はまるで昨日の殺意がなかったかのようにベラと仮装遊びをしたらしい。モーガンは『スタートレック』のデータという登場人物に、ベラはピンクの衣装のお姫様に、アニッサは"prosti-troll"なる自身が創作したキャラクターに扮したという。しかし、その裏で2人は新たな計画を実行しようとした。ドーナツと苺という朝食の後、モーガンは台所から包丁をこっそりと持ち出した。近くのデーヴィッズ・パーク (David’s Park) という公園の公衆トイレでベラを殺すという算段である。アニッサは排水管があるトイレは血液の処分に都合がいいと考えた。ベラをトイレで刺し殺して逃げるという計画だった。2人はベラを眠らせようと誘導したり、気絶させるために煉瓦の壁に頭を叩きつけたりした。組み付いて押さえつけようとしたとも言われている。しかし、上手くいかず、モーガンも取り乱し始め、また計画を変えることになった。
次の、そして最後の計画は、ビッグ・ベンド・ロードの外れの森の中でのかくれんぼだった。かくれんぼの最中、アニッサがベラを押し倒して動きを封じた。モーガンがとどめをさしてくれるだろうと期待してのことだった。しかし、ベラが息ができないと騒ぎ始め、アニッサはベラから離れた。モーガンはアニッサは人体の急所にくわしいだろうと言ってアニッサに包丁を渡した。アニッサは躊躇してモーガンに包丁を返した。2人が包丁を押し付けあっている一方で、ベラは命を狙われているとも知らず、しゃがんで花を弄っていたらしい。結局、アニッサの合図でモーガンがベラを刺すことになった。アニッサの“Go ballistic, go crazy.”、“Now.”という言葉とともに、モーガンはベラに組み付き、同い年の少女の体を何度も切り付けた。
2人はベラの傷に葉っぱを当て、出血を抑えるために横たわって安静にしているように指示した。2人は助けを呼んでくると言ってベラを置いて立ち去った。しかし、2人にはベラを助ける気などなく、騒がずに静かに死んでほしかっただけだった。2人の少女はスレンダーマンに会いにニコレットへ向かった。一方で、ベラは血塗れの体を引きずってどうにか道路まで這っていった。そこを自転車に乗った男性が通りがかり、ベラはウォーキショー・メモリアル・ホスピタルに搬送された。ジョン・ケレマン (John Keleman) 医師が手術を担当した。包丁は腕や脚を傷つけ、肝臓や膵臓、胃を貫いていた。心臓の近くの重要な動脈をぎりぎりで逸れていた。髪の毛1本程の差がベラの命運を分けた。
警察は4時間以上後に州間高速道路94号線の近くで2人を発見した。2人はウォルマートに寄ったり墓場を通り抜けたりと辺りを彷徨っていたらしい。モーガンが自宅から持ち出したハンドバッグには、親友の命を奪った (と2人は信じていた) 凶器が収まっていた。これからは永遠にスレンダーマンと一緒に暮らすことになる。家族とは二度と会えないが、持ってきた写真が慰めになるだろう。しかし、スレンダーマンは迎えに来てくれなかった。 2人はウィスコンシン州の法律に基づき、成人として裁判を受けた。結論を言えば、2人とも精神疾患により無罪という判決だったが、自由な生活を取り戻せたわけではない。アニッサの裁判が先行し、2017年12月21日、25年間精神病院の監督下に置かれることになった。続いて2018年2月1日、モーガンは40年間精神病院の監督下に置かれるという決定が下った。
19箇所も刺されたベラはその後にどうなったか。ベラは入院してから1週間後に退院し、9月頃には学校に復帰した。善意ある人々からの援助も受けた。しかし、治療の後も数多くの傷跡が体に残った。そして、精神の傷は簡単には癒えなかった。事件から数ヶ月間、眠るときは近くの枕の下に鋏を置いていた ([追記] 2019年10月24日のABC Newsの記事によれば、枕の下に鋏を置いて眠る習慣は今日に至るまで続いているという)。2018年の記事によれば、高校に通うようになった今でも、家族揃ってセラピーを受けているという。
加害者の事情
2人がスレンダーマンの存在を信じ込んでしまったのには理由があった。実はモーガンは統合失調症を患っていた。幼い頃から他人には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえたらしい。幽霊や好きな本のキャラクターなどの幻覚を見ていたという。裁判を受けた時期のすぐ前にも「マギー」(Maggie) という存在の声を聞いていた。モーガンは両親に自分の状態について上手く隠し通していた。犯行の後に初めて判明したのである。 実は、モーガンの父親も統合失調症を患っていた。しかし、子供の発症は珍しいこと、まだ子供のモーガンに話すのは早いと判断したことから、両親は父の病について黙っていた。両親はこの決断を後悔しているという。
一時期、モーガンは自分の背後に影のような男の姿を見ていたという。男は痩せぎすで、ぼんやりとした姿をしていた。モーガンはこの存在を「イット」(IT) と呼んでいた。スティーブン・キングの『IT』と似たような呼称だが、偶然の一致らしい。いつしかそれは姿を現さなくなったが、モーガンはそのときの恐怖を忘れることはできなかった。 アニッサからスレンダーマンについて教えてもらったとき、モーガンはITの正体を知ったと思い込んだ。ITがいつの日かスレンダーマンとして自分の元に帰ってくることを恐れた。 モーガンは幼い頃にスレンダーマンを見たことがあると語り、アニッサはそれを信じた。アニッサはモーガンの妄想に感化されてしまったようだ。当時、アニッサの家庭は両親の離婚などの問題があったらしく、家庭環境でのストレスも妄想へ引き寄せられた要因なのかもしれない。親友同士の内緒話が効果的に妄想をかき立ててしまったようである。
こうして、2人は架空の怪物の従者となるべく、親友を罠にはめることにしたのである。19回も少女に包丁を突き立てたのは残忍な犯行であると同時に、蛮勇を発揮して必死になって殺そうとした結果でもあるのだろう。怖気づいて何もせずに帰宅すれば、楽しい誕生日の影であった嫌な思い出で済んだのである。何事もなく日々を過ごした後、統合失調症のことを知って、病気と付き合って人生を穏やかに過ごすこともできたのかもしれない。
残酷で悪趣味ではあるものの、人々に非日常のスリルを与えてくれていたオープンな創作が、運悪く知ってはいけない人にまで知られてしまい、凄惨な事件へと発展した。被害者が生還してどうにか日常に戻ることができたのはせめてもの幸いである。創作の愛好者から、被害者と加害者、その家族まで、全員にとって不幸な結果に終わった事件であった。
追記: 2019年10月下旬の続報
これまで、被害者のベラ本人が公的に発言することはなかった。被害者の立場から公的に発言していたのは、ベラの両親、あるいは一家のスポークスマンであるSJL Government Affairs & CommunicationsのSteve Lyons氏だけだった。しかし、、ABCの番組20/20で初めてベラ本人が重い口を開いた。そのためか、事件について扱う記事が2019年10月下旬に改めて投稿された。当時、事件を担当した捜査官たちが本件について語る記事や、事件の影で苦悩したベラの弟ケーデン (Caden、当時10歳) を主題とした記事、テレビ番組20/20でのベラの発言をまとめた記事などを確認している。これらの記事から新たに発見した事実を下記に挙げる。もっとも、2019年10月下旬以前の記事やテレビ番組でも既出だったが、私が知らなかったから新事実と思い込んでいるという情報もあるかもしれないが……。
- ベラがモーガンと友人になったのは4年生のとき。当時のモーガンは友達がいなくて独り淋しく過ごしていたらしく、孤独なモーガンを気遣ってのことだった。
- モーガンがアニッサと友人になったのは6年生のとき。アニッサはベラに対しては態度が冷たく、ベラはアニッサを好ましく思っていなかった。ベラはアニッサとも交友関係をもったが、それはモーガンがアニッサを大事に思っていたため。あくまで親友の親友という位置付け。
- モーガンとアニッサはスレンダーマンに夢中になっていった。ベラはモーガンの変化に戸惑った。スレンダーマンに悪い印象を持っていたこともあり、モーガンとの友達付き合いを止めることも考えた。しかし、罪悪感があり、事件の日まで親友として接し続けた。
- モーガンとアニッサは人前で殺人計画について相談していた。その際に、物騒な言葉を隠語に置き換えている。「ナイフ」は"cracker"に、「殺人」は"itch"に。
- モーガンはアニッサにブラウザの履歴を削除するのを忘れないようにと指示する電子メールを送っている。モーガンは事件を起こす前にパソコンで、殺人後に逃亡するための方法や、自分がどれほど正気でないか、というような事柄をインターネットで調べていた。
- モーガンとアニッサは最初、モーガンの誕生日のお泊まり会でベラが眠っているところを襲撃するつもりだったが、当初の計画は実行されなかった。アニッサの話によると、計画を一旦取り止めた理由は単純なもので、その日にスケートランドで遊んだ疲れで眠かったためらしい。
- モーガンは家では夜更かしが禁止されていたため、お泊まり会のときはいつも夜遅くまで起きていた。しかし、件の誕生日でのお泊まり会では夜更かしせずに眠ろうと提案してきた。普段とは異なる行動をとっていたとはいえ、ベラはそれが自分を殺すためだったとは気付けなかった。
- 森でのかくれんぼの際、アニッサはベラに、地面に伏せて、木の枝や葉っぱで身を隠すように指示してきた。それはベラを襲いやすくするための罠だったが、やはり事が起こるまで気づくことはなかった。
- 事件以来、ベラは念のために自分の近くの枕の下に壊れた鋏を置いておくようになった。その習慣は今日まで続いている。
- モーガンとアニッサは州の法律により成人として裁判を受けた。2人の扱いについては異論もあるが、ベラ本人は2人が成人として裁かれたのは正当な扱いであると考えている。お菓子を盗んだというような軽微な罪ならば話は変わってくるが、殺人未遂は子供の犯罪ではなく大人の犯罪であるというのがベラの意見。
- ベラは現在は高校生。2020年秋に大学入学の予定。事件での経験からか、医療の分野に進みたいと考えている。
参考文献
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